『山口百恵』
『山口百恵』という本が最近出ました(朝日文庫)。
著者は中川右介氏。Wikipediaによれば、出版社の経営とともに評伝を中心に音楽関係の著書も多数ある。クラシック音楽関係が多数で「クラシックジャーナル」編集長も務めるが、歌舞伎や映画関係、そして『松田聖子と中森明菜』などのPOPS関係の著書もあると言う人です。
朝日新聞の書評欄(7月29日)では次のように紹介しています。

ここにも書かれているように、著者によればこの本は「百恵ちゃんの魅力」を分析するものではなく「山口百恵とその時代」を「追想するためのひとまとまりの資料」と位置付けられています。また「1970年代の<芸能界>総体へのオマージュ」とも言っています。
以前、『南沙織がいた頃』という本を紹介しました。そちらの著者は大学の先生で芸能関係については素人であくまでファンの立場で書かれたものでした。
それに比べるとこちらはいわばこうした評伝のプロで情報もはるかに多く持っているので、内容的にもずっと充実したものになっています。
しかしプロはそちら側(芸能界)からの視点で見てしまいがちと言うことがあると思います。この本も送り出す側、つまりプロダクションやレコード会社がどういう戦略をとったか、それに百恵さんはどう反応したか、といったことが膨大な資料を踏まえて述べられているのですが、受け取る側、つまり一般大衆がどう聴いたかということはほとんど述べられていません。
実際、著者が「百恵ちゃんの魅力」を分析するものではないと言うとおり、この本を読んで「百恵ちゃんの魅力」はさっぱり分からないのです。「自分を見失うことなく生き抜いたひと」ということだけがこの本を読んでわかる「百恵ちゃんの魅力」なのです。私は自伝の「蒼い時」も平岡正明の「山口百恵は菩薩である」も読んだことはありませんし、一般的な水準以上に百恵さんについて詳しく知っているわけではありません。ですから、百恵さんが著者の言うとおり「自分を見失うことなく生き抜いたひと」であったのか判断できません。しかしそのとおりであったとしても、普通に考えて、ファンの人たちは最初から「自分を見失うことなく生き抜いたひと」だからファンになったわけではないでしょう。それはその後の評価だと思います。
そもそも最初から「百恵ちゃんの魅力」を対象外として評伝が成り立つのか、私には疑問です。
著者は音楽についての著書も多数あるのですから、<うた>そのものについてももっと触れればいいと思うのですが、もっぱら企画の面から述べられているだけです。
何より不満なのは、「時代」を謳っているのに、百恵さんがその時代の人たちに何を与えたのか、逆に言えば人々は百恵さんから何を得たのか、それがさっぱり分からないのです。
この本は偉人伝のようです。「虚構の世界で虚構の人物を演じながらも、自分を見失うことなく生き抜いた」偉大な歌手がいたというわけです。しかし、歌手の価値はその人がどう生きたかということではなく、そのうたが人々にどう受け止められ、その心に何を生んだか、ということで判断されるものではないでしょうか。「歌手」を「スター」と置き換えてもいいでしょう。スターの価値はその存在が人々の心に何を生んだかということであるはずです。
天地真理さんの場合それは明白です。真理さんは日本中の人々に「幸せ」をもたらしたのです。
では百恵さんは何でしょうか?残念ながらこの本ではそれはわかりませんでした。
アーカイブ(過去記事)へ 「空いっぱいの幸せ」へ
コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。
著者は中川右介氏。Wikipediaによれば、出版社の経営とともに評伝を中心に音楽関係の著書も多数ある。クラシック音楽関係が多数で「クラシックジャーナル」編集長も務めるが、歌舞伎や映画関係、そして『松田聖子と中森明菜』などのPOPS関係の著書もあると言う人です。
朝日新聞の書評欄(7月29日)では次のように紹介しています。

ここにも書かれているように、著者によればこの本は「百恵ちゃんの魅力」を分析するものではなく「山口百恵とその時代」を「追想するためのひとまとまりの資料」と位置付けられています。また「1970年代の<芸能界>総体へのオマージュ」とも言っています。
以前、『南沙織がいた頃』という本を紹介しました。そちらの著者は大学の先生で芸能関係については素人であくまでファンの立場で書かれたものでした。
それに比べるとこちらはいわばこうした評伝のプロで情報もはるかに多く持っているので、内容的にもずっと充実したものになっています。
しかしプロはそちら側(芸能界)からの視点で見てしまいがちと言うことがあると思います。この本も送り出す側、つまりプロダクションやレコード会社がどういう戦略をとったか、それに百恵さんはどう反応したか、といったことが膨大な資料を踏まえて述べられているのですが、受け取る側、つまり一般大衆がどう聴いたかということはほとんど述べられていません。
実際、著者が「百恵ちゃんの魅力」を分析するものではないと言うとおり、この本を読んで「百恵ちゃんの魅力」はさっぱり分からないのです。「自分を見失うことなく生き抜いたひと」ということだけがこの本を読んでわかる「百恵ちゃんの魅力」なのです。私は自伝の「蒼い時」も平岡正明の「山口百恵は菩薩である」も読んだことはありませんし、一般的な水準以上に百恵さんについて詳しく知っているわけではありません。ですから、百恵さんが著者の言うとおり「自分を見失うことなく生き抜いたひと」であったのか判断できません。しかしそのとおりであったとしても、普通に考えて、ファンの人たちは最初から「自分を見失うことなく生き抜いたひと」だからファンになったわけではないでしょう。それはその後の評価だと思います。
そもそも最初から「百恵ちゃんの魅力」を対象外として評伝が成り立つのか、私には疑問です。
著者は音楽についての著書も多数あるのですから、<うた>そのものについてももっと触れればいいと思うのですが、もっぱら企画の面から述べられているだけです。
何より不満なのは、「時代」を謳っているのに、百恵さんがその時代の人たちに何を与えたのか、逆に言えば人々は百恵さんから何を得たのか、それがさっぱり分からないのです。
この本は偉人伝のようです。「虚構の世界で虚構の人物を演じながらも、自分を見失うことなく生き抜いた」偉大な歌手がいたというわけです。しかし、歌手の価値はその人がどう生きたかということではなく、そのうたが人々にどう受け止められ、その心に何を生んだか、ということで判断されるものではないでしょうか。「歌手」を「スター」と置き換えてもいいでしょう。スターの価値はその存在が人々の心に何を生んだかということであるはずです。
天地真理さんの場合それは明白です。真理さんは日本中の人々に「幸せ」をもたらしたのです。
では百恵さんは何でしょうか?残念ながらこの本ではそれはわかりませんでした。
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