3度目のパリ旅行
前回、真理さんのパリ旅行は全盛期に3回あったと書きました。1973年3月の1回目は篠山紀信さんによる写真撮影が主であったようですが、渡辺美佐さん(渡辺プロ副社長)や安井かずみさんも同行したようです。なんだか便乗のような感じもしますが、おかげでたまたまパリに来ていたジョーン・バエズさんとの面会が実現しました。

この旅行の様子はこれをご覧ください。
2回目は1974年1月でした。

ドイツに寄っているのは、かつての文通相手と面会したためのようです
この旅行の様子はこれをご覧ください。
以上2回が仕事としての旅行であったのに対し、1975年の3回目は全くの個人旅行でした。
このころの真理さんの状況は、さしもの真理ちゃん人気も「恋する夏の日」以降かげりを見せてきたものの、前年後半には「想い出のセレナーデ」が大ヒット、6月にはミュージカルも予定されて、以前のような殺人的スケジュールではなく、落ち着いた中にも充実した歌手活動が実現しつつありました。また、1972年10月から続いてきたTBS「真理ちゃんシリーズ」も3月一杯で終了が決まり、録画のための拘束もなくなり、ようやくまとまった自由な時間が持てるようになったのです。
そこで、2月から一か月の休暇をとって、この間の夢であったパリへの一人旅に出発したのです。
これについてはまずこちらをご覧ください。
この中でも言っていることですが、なぜ一カ月もの一人旅に出たのか、雑誌GORO(1975.6.12)ではこう言っています。
「考えちゃったの、いろんなこと。・・・なんか幸せじゃなかったの。去年一年、ずっと忙しくやってきて仕事の面でいろいろあって、でも誰も頼る人がいなくなって・・・毎日がつまんなかったの。毎日楽しくなきゃいけないと思うのね。学生みたいな生活送りたかったの。・・・やっぱり疲れちゃったのよ。いつも派手じゃない、なんか。でも私には似合わないんだよね。・・・3日にいっぺんくらい、仕事はいやだなあ、って思うわ。ピクニックにいきたいって・・・。」
だから普通の観光旅行ではなく風呂もなくトイレも共同と言う安ホテルに泊まって一カ月を過ごしたのです。この旅行の際、日本のマスコミは真理さんと同行した男性がいたということで騒然となりましたが、実際はそういう”学生みたいな”生活をしたいために、たまたま喫茶店で知り合ったところパリをよく知る方だったので案内を頼んだというのが真相でした。
そこでパリに来て間もない頃はこの男性に案内してもらって、下町のファッションブティックで買い物をしたり、「蚤の市」へ出かけて大道芸人の歌うシャンソンを楽しんだりしたようです。
ところが日本で大騒ぎになっていると知った男性は「こんなつもりではなかった」と怒ってしまい、数日全く顔を見せず、真理さんは言葉もわからないままに放り出されてしまったようです。
しかしそれがきっかけになったのか、真理さんは一人でパリの街を歩き始め、「地下鉄ならどこでもすっかりおぼえちゃった」というくらい行動範囲を広げていったようです。念願の共同浴場を見つけ、うれしくて1時間も入っていたら主人に怒られたとか、あやしい人物につけ回されたとか、いろいろの経験があったようです。
そうして街を一人で歩くうちに留学生、ヒッピー、画家の卵といった何人かの日本人の若者と友達になり、一緒にスイスへ出かけます。その時のことを次のように言っています。
「スイスでアイガーのふもとの山小屋に泊まって自炊生活をしたのよ。みんな素朴でいい人ばかりでした。別れる時には”アビヤン!”(また会いましょう)って涙をためて見送ってくれたの。私もうれしくなって泣いちゃったけど、人間ってそれが本当じゃないかしら。芸能界にいると、人間同士のふれあいで涙を流すことなんて、まったくないんですものね」<週刊明星1975.3.23>
そんなことを含めてパリでの生活はまさに真理さんがずっと憧れていた生活でした。
「友だちはたくさんできたよ。素敵な人たちがたくさんいる。でも、そんなのだれも知らないんだ、日本では。全然違うことに目が向いててさ。イイ気味だ(笑い)。」<GORO 1975.6.12>
友達になった日本人の人たちも彼女が「天地真理」であることは知っていたと思われます。しかしそういうこととは無関係に、一人の人間として彼女と付き合ってくれたのでしょう。渡辺プロから「友達をつくってはいけない」と言われ、芸能界ではほとんど友達もなく、常に誰かから見られていて一人でいる自由もなかった真理さんにとって、「天地真理」でいなくていいパリでの生活はまさに「夢のような生活」でした。
日本では相も変らぬゴシップ騒ぎをしていて何も知らないけれど、<自分はここでかけがえのない宝物を手に入れた>と言う思いが「イイ気味だ」という言葉に表れているのではないでしょうか。
日本に帰ってからの取材に対し、真理さんはこの旅行についてこんなふうに言っています。
「今までの自分がどんなに弱い人間だったか、それをしみじみ感じさせられたの。私は何でもまわりの人にしてもらってたでしょう。自分の意見さえ口に出さなかったけど、これからは何でも話して、私はこういう女だということを理解してもらったうえで、好きになってくれる人がいたら恋もしようと思うの。」
<週刊明星1975.3.23>
芸能誌はなんでも「女」とか「恋」と言う言葉に結び付けようとしますが、本当の趣旨は動画で話している通りですね。
いわば彼女の自立宣言であるわけです。それは次の記事でより明瞭に語られています。
「これまでの私って、人気にとらわれてキュウキュウと生活してきたような気がするの。それでもこういうきつい性格だから、私は私なりに、自分の生きざまを信じて生きてきたつもり。そのためにわがままだとか、ごうまんだとか言われていることも知ってるよ。気がつかないうちに人を傷つけているかもしれないわね。でも私、いい子でいるのなんかくたびれちゃった。気分が悪ければフテクサレもしちゃうんだ。変わってるって言われても、私は悪(ワル)で生きてくの。」
(切り抜きのため出所不明。芸能誌または芸能週刊誌)
この言葉から何か連想した人もあるかもしれません。
「人を傷つけているかもしれない」→「人を傷つけてきた」
そうです、1年後の「私は天地真理」コンサートで「私は今日、この曲を歌いたかったんです」と言った『告悔』を連想しませんか?
人はそれも知らずに
私をそしり続ける
心のままに 生きてゆくのは
いけない事でしょうか
この歌詞と上の言葉は瓜二つと言ってもいいのではないでしょうか。
しかし、この記事での開き直ったような話し方と1年後のどこか切羽詰まったひたむきな歌とは印象が大きく違います。そこに、彼女がここで選んだ生き方が直面した様々な困難が投影しているのかもしれませんし、それがさらに10カ月後の入院、休養につながるのかもしれません。
その意味で、この3度目のパリ旅行は真理さんの人生の転機となった旅とも言えますが、真理さん自身は今でもこのパリ(とスイス)での一カ月をかけがえのない青春の宝物と考えておられるに違いないと私は思っています。

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この旅行の様子はこれをご覧ください。
2回目は1974年1月でした。

ドイツに寄っているのは、かつての文通相手と面会したためのようです
この旅行の様子はこれをご覧ください。
以上2回が仕事としての旅行であったのに対し、1975年の3回目は全くの個人旅行でした。
このころの真理さんの状況は、さしもの真理ちゃん人気も「恋する夏の日」以降かげりを見せてきたものの、前年後半には「想い出のセレナーデ」が大ヒット、6月にはミュージカルも予定されて、以前のような殺人的スケジュールではなく、落ち着いた中にも充実した歌手活動が実現しつつありました。また、1972年10月から続いてきたTBS「真理ちゃんシリーズ」も3月一杯で終了が決まり、録画のための拘束もなくなり、ようやくまとまった自由な時間が持てるようになったのです。
そこで、2月から一か月の休暇をとって、この間の夢であったパリへの一人旅に出発したのです。
これについてはまずこちらをご覧ください。
この中でも言っていることですが、なぜ一カ月もの一人旅に出たのか、雑誌GORO(1975.6.12)ではこう言っています。
「考えちゃったの、いろんなこと。・・・なんか幸せじゃなかったの。去年一年、ずっと忙しくやってきて仕事の面でいろいろあって、でも誰も頼る人がいなくなって・・・毎日がつまんなかったの。毎日楽しくなきゃいけないと思うのね。学生みたいな生活送りたかったの。・・・やっぱり疲れちゃったのよ。いつも派手じゃない、なんか。でも私には似合わないんだよね。・・・3日にいっぺんくらい、仕事はいやだなあ、って思うわ。ピクニックにいきたいって・・・。」
だから普通の観光旅行ではなく風呂もなくトイレも共同と言う安ホテルに泊まって一カ月を過ごしたのです。この旅行の際、日本のマスコミは真理さんと同行した男性がいたということで騒然となりましたが、実際はそういう”学生みたいな”生活をしたいために、たまたま喫茶店で知り合ったところパリをよく知る方だったので案内を頼んだというのが真相でした。
そこでパリに来て間もない頃はこの男性に案内してもらって、下町のファッションブティックで買い物をしたり、「蚤の市」へ出かけて大道芸人の歌うシャンソンを楽しんだりしたようです。
ところが日本で大騒ぎになっていると知った男性は「こんなつもりではなかった」と怒ってしまい、数日全く顔を見せず、真理さんは言葉もわからないままに放り出されてしまったようです。
しかしそれがきっかけになったのか、真理さんは一人でパリの街を歩き始め、「地下鉄ならどこでもすっかりおぼえちゃった」というくらい行動範囲を広げていったようです。念願の共同浴場を見つけ、うれしくて1時間も入っていたら主人に怒られたとか、あやしい人物につけ回されたとか、いろいろの経験があったようです。
そうして街を一人で歩くうちに留学生、ヒッピー、画家の卵といった何人かの日本人の若者と友達になり、一緒にスイスへ出かけます。その時のことを次のように言っています。
「スイスでアイガーのふもとの山小屋に泊まって自炊生活をしたのよ。みんな素朴でいい人ばかりでした。別れる時には”アビヤン!”(また会いましょう)って涙をためて見送ってくれたの。私もうれしくなって泣いちゃったけど、人間ってそれが本当じゃないかしら。芸能界にいると、人間同士のふれあいで涙を流すことなんて、まったくないんですものね」<週刊明星1975.3.23>
そんなことを含めてパリでの生活はまさに真理さんがずっと憧れていた生活でした。
「友だちはたくさんできたよ。素敵な人たちがたくさんいる。でも、そんなのだれも知らないんだ、日本では。全然違うことに目が向いててさ。イイ気味だ(笑い)。」<GORO 1975.6.12>
友達になった日本人の人たちも彼女が「天地真理」であることは知っていたと思われます。しかしそういうこととは無関係に、一人の人間として彼女と付き合ってくれたのでしょう。渡辺プロから「友達をつくってはいけない」と言われ、芸能界ではほとんど友達もなく、常に誰かから見られていて一人でいる自由もなかった真理さんにとって、「天地真理」でいなくていいパリでの生活はまさに「夢のような生活」でした。
日本では相も変らぬゴシップ騒ぎをしていて何も知らないけれど、<自分はここでかけがえのない宝物を手に入れた>と言う思いが「イイ気味だ」という言葉に表れているのではないでしょうか。
日本に帰ってからの取材に対し、真理さんはこの旅行についてこんなふうに言っています。
「今までの自分がどんなに弱い人間だったか、それをしみじみ感じさせられたの。私は何でもまわりの人にしてもらってたでしょう。自分の意見さえ口に出さなかったけど、これからは何でも話して、私はこういう女だということを理解してもらったうえで、好きになってくれる人がいたら恋もしようと思うの。」
<週刊明星1975.3.23>
芸能誌はなんでも「女」とか「恋」と言う言葉に結び付けようとしますが、本当の趣旨は動画で話している通りですね。
いわば彼女の自立宣言であるわけです。それは次の記事でより明瞭に語られています。
「これまでの私って、人気にとらわれてキュウキュウと生活してきたような気がするの。それでもこういうきつい性格だから、私は私なりに、自分の生きざまを信じて生きてきたつもり。そのためにわがままだとか、ごうまんだとか言われていることも知ってるよ。気がつかないうちに人を傷つけているかもしれないわね。でも私、いい子でいるのなんかくたびれちゃった。気分が悪ければフテクサレもしちゃうんだ。変わってるって言われても、私は悪(ワル)で生きてくの。」
(切り抜きのため出所不明。芸能誌または芸能週刊誌)
この言葉から何か連想した人もあるかもしれません。
「人を傷つけているかもしれない」→「人を傷つけてきた」
そうです、1年後の「私は天地真理」コンサートで「私は今日、この曲を歌いたかったんです」と言った『告悔』を連想しませんか?
人はそれも知らずに
私をそしり続ける
心のままに 生きてゆくのは
いけない事でしょうか
この歌詞と上の言葉は瓜二つと言ってもいいのではないでしょうか。
しかし、この記事での開き直ったような話し方と1年後のどこか切羽詰まったひたむきな歌とは印象が大きく違います。そこに、彼女がここで選んだ生き方が直面した様々な困難が投影しているのかもしれませんし、それがさらに10カ月後の入院、休養につながるのかもしれません。
その意味で、この3度目のパリ旅行は真理さんの人生の転機となった旅とも言えますが、真理さん自身は今でもこのパリ(とスイス)での一カ月をかけがえのない青春の宝物と考えておられるに違いないと私は思っています。

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