アーティスト
先日、今年のアカデミー賞5部門受賞作「アーティスト」を見に行ってきました。
白黒のサイレント映画の新作ということで話題になっていますが、単なる話題性と言うことでなく、「これが映画だ」と言いたいくらいの傑作でした。詳しくは公式サイトを見ていただきたいと思いますが、チャップリンの感動を現代によみがえらせた、と言ったらよいでしょうか。
私がまず感じたのは、セリフのない心地よさです。
サイレントは字幕が出ますがすべての言葉が字幕になるのではありません。肝心のところだけが字幕で読むことができます。その他のところは映像から想像で補います。もう一つ、音楽と言うのも重要な要素です。つまりサイレントと言うのは、セリフ抜きの映像としての演技と、音楽、そして時折入る字幕という3つの要素が総合されて見るものに何かを訴えるのですね。
セリフが聞こえると言葉で説明されるので演技をあまり見ていなくてもある程度理解できてしまいます。したがって、演じる側はさしたる演技でなくても、今何をやっている(思っている)ということは言葉で説明できますし、見る側は演技そのものではなく言葉で説明される範囲で演技を理解してしまいます。つまり意味が限定され説明的になってしまいます。
「セリフのない心地よさ」といったのは言葉以外の演技とか音楽といった要素も含めて言葉に縛られない自由な想像ができるからです。白黒なのもカラーですべて見えてしまうより想像の幅が広がります。
普通の映画だとセリフを聴きのがさないようにとか、字幕のある場合は見落とさないようにとか、そちらに神経を使ってしまい演技や音楽を含めた総合として見ていないのではないかと思うのです。
その点この映画はそれらの要素を混然とした総合として楽しめたという気がするのです。この映画の主人公の名優があくまでサイレントにこだわったのも、そしてこの監督があえて現代にサイレント映画を撮ろうとしたのもわかるように思います。
実は<うた>にも同じことが言えるのではないでしょうか。
歌にも「○○だから○○」と言うような説明的な歌詞の歌と、あまり説明的でない詩的な歌詞の歌があります。前者は言いたいことは言葉の意味によって説明され、音楽はBGMのようにその気分をかもしだす手段となっているとも言えます。いわば音楽つき朗読といった性格です。
一方、後者は言葉だけではなく音楽や歌唱が総合して一つの印象(意味)を聴く者に与えます。たとえば『ひとりじゃないの』の歌詞で「あなたが微笑みを少し分けてくれて 私が一粒の涙をかえしたら」というのも、なぜ「あなた」は微笑みを少し分けてくれたのか、なぜ「私」は一粒の涙をかえしたのか、何の説明もありません。そこに音楽と歌唱が加わることで「意味」が生まれるのです。たとえばセカンドアルバム版では前へ前へと進むように歌われることで、よろこびに満ちた出会いという印象になりますが、シングル版では繊細にしっとりと歌われることで、孤独な魂を癒しあうような出会いという印象になります。言葉だけでは断片的で独立した意味をもたないからこそ、音楽、歌唱と一体となって<うた>独自の意味が生まれるのです。
実は真理さんの歌は後者のような歌が多いし、そうでなくても言葉をかなり感覚的に受け止めて歌っていると思うのですが、そのことについてはまた別の機会に触れることにしたいと思います。
ともかく私は後者のような場合にこそ、想像力が言葉による解釈(理屈)から解放されて、<うた>それ自体が独自の価値をもつことができると思っているのです。
音楽と映画の違いはありますが、「アーティスト」もそういう意味で、私にとって想像力が解放されて、自由な心で楽しめたという気がするのです。
実はもうひとつ、ストーリーに関わることで感想があるのですが、どうもうまくまとまりません。中途半端で申しわけありませんが、よかったらこの映画を見て考えてみてください。
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コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。
白黒のサイレント映画の新作ということで話題になっていますが、単なる話題性と言うことでなく、「これが映画だ」と言いたいくらいの傑作でした。詳しくは公式サイトを見ていただきたいと思いますが、チャップリンの感動を現代によみがえらせた、と言ったらよいでしょうか。
私がまず感じたのは、セリフのない心地よさです。
サイレントは字幕が出ますがすべての言葉が字幕になるのではありません。肝心のところだけが字幕で読むことができます。その他のところは映像から想像で補います。もう一つ、音楽と言うのも重要な要素です。つまりサイレントと言うのは、セリフ抜きの映像としての演技と、音楽、そして時折入る字幕という3つの要素が総合されて見るものに何かを訴えるのですね。
セリフが聞こえると言葉で説明されるので演技をあまり見ていなくてもある程度理解できてしまいます。したがって、演じる側はさしたる演技でなくても、今何をやっている(思っている)ということは言葉で説明できますし、見る側は演技そのものではなく言葉で説明される範囲で演技を理解してしまいます。つまり意味が限定され説明的になってしまいます。
「セリフのない心地よさ」といったのは言葉以外の演技とか音楽といった要素も含めて言葉に縛られない自由な想像ができるからです。白黒なのもカラーですべて見えてしまうより想像の幅が広がります。
普通の映画だとセリフを聴きのがさないようにとか、字幕のある場合は見落とさないようにとか、そちらに神経を使ってしまい演技や音楽を含めた総合として見ていないのではないかと思うのです。
その点この映画はそれらの要素を混然とした総合として楽しめたという気がするのです。この映画の主人公の名優があくまでサイレントにこだわったのも、そしてこの監督があえて現代にサイレント映画を撮ろうとしたのもわかるように思います。
実は<うた>にも同じことが言えるのではないでしょうか。
歌にも「○○だから○○」と言うような説明的な歌詞の歌と、あまり説明的でない詩的な歌詞の歌があります。前者は言いたいことは言葉の意味によって説明され、音楽はBGMのようにその気分をかもしだす手段となっているとも言えます。いわば音楽つき朗読といった性格です。
一方、後者は言葉だけではなく音楽や歌唱が総合して一つの印象(意味)を聴く者に与えます。たとえば『ひとりじゃないの』の歌詞で「あなたが微笑みを少し分けてくれて 私が一粒の涙をかえしたら」というのも、なぜ「あなた」は微笑みを少し分けてくれたのか、なぜ「私」は一粒の涙をかえしたのか、何の説明もありません。そこに音楽と歌唱が加わることで「意味」が生まれるのです。たとえばセカンドアルバム版では前へ前へと進むように歌われることで、よろこびに満ちた出会いという印象になりますが、シングル版では繊細にしっとりと歌われることで、孤独な魂を癒しあうような出会いという印象になります。言葉だけでは断片的で独立した意味をもたないからこそ、音楽、歌唱と一体となって<うた>独自の意味が生まれるのです。
実は真理さんの歌は後者のような歌が多いし、そうでなくても言葉をかなり感覚的に受け止めて歌っていると思うのですが、そのことについてはまた別の機会に触れることにしたいと思います。
ともかく私は後者のような場合にこそ、想像力が言葉による解釈(理屈)から解放されて、<うた>それ自体が独自の価値をもつことができると思っているのです。
音楽と映画の違いはありますが、「アーティスト」もそういう意味で、私にとって想像力が解放されて、自由な心で楽しめたという気がするのです。
実はもうひとつ、ストーリーに関わることで感想があるのですが、どうもうまくまとまりません。中途半端で申しわけありませんが、よかったらこの映画を見て考えてみてください。
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