天色の声の乙女
また読書ノートのようになってしまいますが、最近読んだ本でおもしろかったのが養老孟司さんと久石譲さんの対談『耳で考える』です。私はもともと「音楽は耳で聴くもの」と思っているので、そうしたことが出てくるかな、と思い読んでみました。
読んでみると全然関係ないことも多いのですが、たとえば、次のような個所があります。
養老 それを、哲学では「クオリア」というんです。茂木健一郎君が「クオリア」ということをよく言っていますが、言葉ですくいきれなくて落ちていく部分というのが必ずあるわけです。
いろんなふうに落ちるんですけど、たとえば我々は、ものを名前で呼びます。自然のものを、たとえばリンゴならリンゴと言う。だけどリンゴにもいろいろな種類がある。黄色いのも青いのも赤いのも、甘いのも酸っぱいのも、大きいのも小さいのも、木になっているのも、八百屋で売っているのも、腐って落っこちているのもさまざまです。
それが言葉としては「リンゴ」 の一語で言い表せます。一見便利なようですが、「リンゴ」という言葉を使った瞬間に、そのリンゴの持っているいろんなものが落ちる。
なおかつ、そのリンゴがどういうふうに見えているか、各人それぞれの見え方は絶対に語れない。当人でなければわからない。赤いと言っても、その赤さは人によってまちまちです。ひょっとしたら、あなたが緑色だと感じているリンゴの感覚を、他の人は赤いと言っているかもしれない。そういうことはお互いに比べようがないものでしょう?.
そういうふうに言葉で表現しようとすると必ず落ちていく、絶対に比べようがないものを、哲学では「クオリア」という。
ところが、今は現実よりも言葉が優先するんですね。そして言葉にならないことは、「ないこと」になってしまうんです。そうした中で、かろうじて絵とか音楽とか、いわゆる芸術といわれるものが、言葉にならないものとして踏みとどまっている。
たとえばある人があることに感動した時、それを「感動」という言葉で表したとすると、他の人はそれを一般的な意味の「感動」として理解してしまう。その人にとってはかけがえのない具体的な経験であったはずの「感動」が抽象的でのっぺらぼうな「感動」になってしまう。つまり頭(脳)で理解した概念になってしまうということでしょう。
養老さんは音楽が言葉にならないものとして踏みとどまっている、と言っていて、たしかに音楽そのものはそうなのですが、音楽を語る言葉については同じことが言えますね。音楽について語る時、自分がその音楽を聴いて感じた具体的な経験を語るのではなく、出来合いの言葉で代用してしまうということがほとんどではないでしょうか。歌詞という「言葉」からストーリー的な意味づけをしたり、分類(ジャンル分け)するだけで終わっていたり、音楽とは何の関係もないレッテル貼り(”清純派””アイドル”など)でしかなかったり、ということが本当に多いと思います。
メロンパンさんのブログ〈天地真理ものがたり〉に面白いものが出ていました。天地真理さんの歌を日本の伝統色に結びつけたものですが、青色系でも水色、空色、そして天色(あまいろ)と3種類が出ています。特に天色というのははじめて聞く色名ですが、本当に微妙な色合いを持った色です。澄んだ明るさをもちながらしっとりと落ち着いており、深みがありながら軽やかです。日本人は何て色彩感覚が豊かだったのだろうと驚きます。でも今の日本人は私も含めてこういう豊かな色彩感覚をなくしてしまっていて、何でも「青」になってしまいます。「水色」と「空色」の区別もつかないのではないでしょうか。日本の伝統色の微妙なニュアンスは「青」という言葉で単純化されて抜け落ちてしまっているのです。
天地真理さんのうたに対する評価もこういう単純で雑駁な「言葉」が多いのです。真理さんのうたは「明るい」と言われるけれど、水色の明るさ、空色の明るさ、天色の明るさ、等、様々なニュアンスがあるはずなのに、何も考えずにステレオタイプに「明るい」という常套句が使われているだけなのです。
このあたりのことは本編の「天地真理のうたはどう評価されたか」に書きましたので、ご覧いただければと思いますが、そういう言葉=頭(理屈)ではなく、しっかりと耳で聴き取るとき、真理さんのうたはちょうど日本の伝統色のようにデリケートで鮮やかなニュアンスで満ちています。
(真理さんの歌う『恋は水色』では、「青い海」と「水色の空」がくっきりと歌い分けられています)
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読んでみると全然関係ないことも多いのですが、たとえば、次のような個所があります。
養老 それを、哲学では「クオリア」というんです。茂木健一郎君が「クオリア」ということをよく言っていますが、言葉ですくいきれなくて落ちていく部分というのが必ずあるわけです。
いろんなふうに落ちるんですけど、たとえば我々は、ものを名前で呼びます。自然のものを、たとえばリンゴならリンゴと言う。だけどリンゴにもいろいろな種類がある。黄色いのも青いのも赤いのも、甘いのも酸っぱいのも、大きいのも小さいのも、木になっているのも、八百屋で売っているのも、腐って落っこちているのもさまざまです。
それが言葉としては「リンゴ」 の一語で言い表せます。一見便利なようですが、「リンゴ」という言葉を使った瞬間に、そのリンゴの持っているいろんなものが落ちる。
なおかつ、そのリンゴがどういうふうに見えているか、各人それぞれの見え方は絶対に語れない。当人でなければわからない。赤いと言っても、その赤さは人によってまちまちです。ひょっとしたら、あなたが緑色だと感じているリンゴの感覚を、他の人は赤いと言っているかもしれない。そういうことはお互いに比べようがないものでしょう?.
そういうふうに言葉で表現しようとすると必ず落ちていく、絶対に比べようがないものを、哲学では「クオリア」という。
ところが、今は現実よりも言葉が優先するんですね。そして言葉にならないことは、「ないこと」になってしまうんです。そうした中で、かろうじて絵とか音楽とか、いわゆる芸術といわれるものが、言葉にならないものとして踏みとどまっている。
たとえばある人があることに感動した時、それを「感動」という言葉で表したとすると、他の人はそれを一般的な意味の「感動」として理解してしまう。その人にとってはかけがえのない具体的な経験であったはずの「感動」が抽象的でのっぺらぼうな「感動」になってしまう。つまり頭(脳)で理解した概念になってしまうということでしょう。
養老さんは音楽が言葉にならないものとして踏みとどまっている、と言っていて、たしかに音楽そのものはそうなのですが、音楽を語る言葉については同じことが言えますね。音楽について語る時、自分がその音楽を聴いて感じた具体的な経験を語るのではなく、出来合いの言葉で代用してしまうということがほとんどではないでしょうか。歌詞という「言葉」からストーリー的な意味づけをしたり、分類(ジャンル分け)するだけで終わっていたり、音楽とは何の関係もないレッテル貼り(”清純派””アイドル”など)でしかなかったり、ということが本当に多いと思います。
メロンパンさんのブログ〈天地真理ものがたり〉に面白いものが出ていました。天地真理さんの歌を日本の伝統色に結びつけたものですが、青色系でも水色、空色、そして天色(あまいろ)と3種類が出ています。特に天色というのははじめて聞く色名ですが、本当に微妙な色合いを持った色です。澄んだ明るさをもちながらしっとりと落ち着いており、深みがありながら軽やかです。日本人は何て色彩感覚が豊かだったのだろうと驚きます。でも今の日本人は私も含めてこういう豊かな色彩感覚をなくしてしまっていて、何でも「青」になってしまいます。「水色」と「空色」の区別もつかないのではないでしょうか。日本の伝統色の微妙なニュアンスは「青」という言葉で単純化されて抜け落ちてしまっているのです。
天地真理さんのうたに対する評価もこういう単純で雑駁な「言葉」が多いのです。真理さんのうたは「明るい」と言われるけれど、水色の明るさ、空色の明るさ、天色の明るさ、等、様々なニュアンスがあるはずなのに、何も考えずにステレオタイプに「明るい」という常套句が使われているだけなのです。
このあたりのことは本編の「天地真理のうたはどう評価されたか」に書きましたので、ご覧いただければと思いますが、そういう言葉=頭(理屈)ではなく、しっかりと耳で聴き取るとき、真理さんのうたはちょうど日本の伝統色のようにデリケートで鮮やかなニュアンスで満ちています。
(真理さんの歌う『恋は水色』では、「青い海」と「水色の空」がくっきりと歌い分けられています)
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