こんにちは
真理さんの「蔵出し音声」を聞かせていただきありがとうございます。
父親を語る部分は、今回初めて聞きました。正直にそこまで答えなくともいいのにと思われるほど、真理さんの人柄が出たインタビューだと感じました。
離婚しても、姓を「斎藤」のままに置いてあったのには、いろいろ家庭のプライベートな事情があったと推察しますが、真理さんご自身がその後離婚され、今なお「青木」の姓を残されているのに、なにか不思議な繋がりを感じます。
再会した父親に「もう会うことはないと思います」と云いつつ「お酒が滲みた父のネクタイ」を洗ってお母さんに見せるなど、複雑な想いがきっと真理さんの胸に去来したと思います。
11日5日 映画鑑賞会、ファンの集いともに、今回私は参加してきました。残念ながら真理さんご本人の出席はありませんでしたが、真保さんが、映画・ファンの集いを、延べ6時間ちかく、ずっと最後までひとりで参加されていました。
私たち父親のような年代のファンに囲まれ、ちょこんと映画館のイスに座った小柄な彼女の姿を思い出しました・・・
誕生日記念の蔵出し、大変、楽しませていただきました。
「赤ちょうちん」は、このTV番組のために、生バンドで、生で歌ったものでしょうか。
まさに「実験的な歌い方」とういう表現は、的を得ています。朝の番組ですので、ここで歌った2曲は、おそらく、当時の視聴者の多くは、否定的な感想を抱いたのではないでしょうか。夜の番組であれば、また違った感想になるのではないかと思います。
父親との再会の話題は、いかにも朝のワイドショー的な構成になっていますが、かなり、言葉を選んで話されているのが伝わります。
メロンパンさん
コメントありがとうございます。
この頃の真理さんは他の会話からもわかるように意識的に<自立>しようとしていました。特に一人で過ごしたフランスでの時間がそういう気持ちを強めたと思います。
旅行から帰ってすぐにお父さんに会ったのも、自分のルーツを確認して次への一歩を踏み出すために必要だったのではないでしょうか。
ともかく、この番組では初のミュージカル挑戦も控えて、新しい自分を拓いていこうとする希望に充ちた真理さんの気持ちが伝わってきますね。
メロンパンさんは真保さんの待ち合わせにちょうど遭遇されたとか。偶然というものは時に必然であったりします。この時も、そこにふさわしい人に偶然が訪れたのでしょう。
私は結局参加できませんでしたが、40周年のイベントがいずれも盛況で、ファンの輪がさらに大きく強くなったことを喜びたいと思います。
chitaさん
コメントありがとうございます。
そうです。生で歌っていました。そしてこの曲の次に「母」を歌いました。
たしかに朝の番組では雰囲気として合っていなかったかもしれません。
記憶がはっきりしていないのですが、なぜかこの日は私も家にいて(仕事が休みだったのでしょうか?)テレビを見ながら録音したと思うのです。
「赤ちょうちん」や「母」を真理さんが歌っている映像はうっすら記憶にあるのですが、そのうた自体は、あの「母」でさえ記憶にないのです。数年前、何年ぶりかで動いたオープンリールデッキに中身が分からないままにかけたテープで「母」を聴いて、しばらく放心していました。どうして当時このうたの価値が分からなかったのか、自分が情けなくなりました。
他の視聴者のことは分かりませんが、何か魔法のようなものでみんなの耳が狂わされていたのではないかとさえ思えます。
「母」はすでの大勢の人に聴いていただいていますが、独自の魅力を持つ「赤ちょうちん」もやっとお聴きいただけるようにできて、肩の荷が下りました。
ひこうき雲さん、と気楽にお呼びしてもよろしいでしょうか?
初めまして、仁と申します。
真理さんによる「赤ちょうちん」、聴けば聴くほど昭和45年前後の時代をゆらゆら揺れているように私には聞こえます。地声の部分では40年前半に引っ張られ、ファルセットの部分では後半に引っ張られます。
山崎ハコさんという方が「織江の唄」という歌を歌っておられますが、ご存知でしょうか?五木寛之の「青春の門」に出てくる女性の唄ですが、もしご存知でなければ一度お聴き願えたら思います。
私はこの唄を聴くたびに涙してしまいます。私の幼いころの昭和を強く意識させられるからです。ちなみに、私は現在54歳です。
何を申し上げたいかと言いますと、真理さんの地声の中に、私は山崎ハコさんと共通の「古いほうの昭和」を見つけてしまうのです。
年齢はハコさんが私と同い年なのですが、真理さんのほうがファルセットとともに、「新しいほうの昭和」を駆け抜けて行かれたという風に、私は現在理解しております。
とりとめのないことを書いてしまいましたが、どうかお赦しください。
では、失礼いたします。
仁さん
あちこちのブログでコメント拝見していますので初めてという気がしません。
これからも気楽にお立ち寄りください。
山崎ハコさんは名前は昔から知っていますが、あまり聴いたことはなかったので、Youtubeで「織江の唄」を聴いてみました。仁さんの言われていることは大体わかりました。
仁さんがおっしゃっているのは、この暗さが「古いほうの昭和」を連想させるということなのでしょうね。たしかに真理さんの地声はちょっと暗いところがありますね。その意味では「赤ちょうちん」を歌うにはちょうど良かったということかもしれません。
私の動画も暗めの映像を使って雰囲気を出そうとしましたので、なおさらそんな印象が強くなったかもしれませんね。
山崎ハコ」の名前を久しぶりに聞きました。山崎ハコは大分県出身で、同じ九州出の私は、デビュー当時、注目してました。とにかく暗いイメージ、今にも自殺するのではないかと感じるほどでした。
75年頃当時は、荒井由実、中島みゆきも、同様に暗いイメージで、TVにでないために、不思議な雰囲気をかもしだし、その分逆に、なぜか魅かれたような記憶があります。
この3人とも、地声がきれいというわけでもなく、歌い方が上手とは思えないのですが、説得力のある歌唱力があります。そして、3人とも若い時は暗いイメージですが、年を重ねるごとに明るい感じに変わってきたような気がします。山崎ハコにしても、「今夜は踊ろう」(十八番:1994年、荒木一郎カバー)は、アイドル歌手のように歌っています。
http://www.youtube.com/watch?v=p_jWwJmLe3w&feature=related
天地真理さんが「新しいほうの昭和」、山崎ハコが「古いほうの昭和」という表現は、大変おもしろいと感じました。実は、天地真理さんは、古い昭和の最後の歌姫ではないでしょうか。
天地真理さんが「新しいほうの昭和」、山崎ハコが「古いほうの昭和」というのは、大変興味深い表現ですね。
私は、天地真理さんは、「古いほうの昭和」と思っています。音楽ビジネスの観点からですが。
全共闘時代(65年~72年)と呼ばれる時期、伊東ゆかり(47年生)、黛ジュン(48年生)、いしだあゆみ(48年生)、由紀さおり(48年生)、小川知子(49生)などが活躍し、昭和歌謡の黄金期かと思いますが、天地真理さんは、この昭和歌謡の最後の大物歌姫だったと思っています。その後、フォーク歌手が音楽ビジネスの中心になっていきました。
山崎ハコは、デビュー当時、とにかく暗い暗いイメージで、今にも自殺するのではないかと感じるほどで、不思議な雰囲気をかもしだしていましたが、これが、まさに音楽ビジネスとしては、「新しいほうの昭和」と私は思っています。
蛇足ですが、山崎ハコ「今夜は踊ろう」(十八番:1994年)は、アイドル歌手のように歌っています。(荒木一郎を探していたら、偶然発見)
http://www.youtube.com/watch?v=p_jWwJmLe3w&feature=related
ひこうき雲様
少々日が経ちましたが、11・5について書かせてください。
実際参加されなかったひこうき雲さんにはおわかりにならないかもしれませんが、わずか100人にも満たないちいさな集団のなかにも新たな出会い・別れがあり、そして新たな発見がありました。当方が直接親しくさせていただいているのはごく限られた人たちですが、先日初めてお会いした人に「《天地真理》を研究しています。」と告げますと、即座に「それって、冗談じゃなくって?」と返事が返ってきたので、思わず苦笑しました。
当方は9月のライブトンネルの際に、真理さんご本人に対し「《天地真理》を研究しています。」とお伝えしました。よく考えてみれば、ご本人を前にして呼び捨てにしているわけで、無礼千万な話なのですが、当方にはどうしてもそのとき「真理さんを研究しています。」、もしくは「真理ちゃんを研究しています。」とは言えませんでした。それは、やはり……《天地真理》を研究しているからなのです。《天地真理》という名を背負われた歌唱・演技といった芸能的営為や、ご本人が歩まれた人生の場面のかずかずの向こう側にあるひとつの象徴的意味を探求しようとしているのであって、一個人の身辺のくさぐさを調査しているわけではないからです。ご本人に対して「真理ちゃんを研究しています。」などと言うシーンを思い浮かべるだけで、なんともおもはゆく感じます。
その際の真理さんご本人は意外と冷静で自然なご様子でしたので、当方は幾分安堵するとともに、真理さんご自身が《天地真理》を相応に客観視されていることの証左を得たと認識しています。
さて、11・5ですが、ちょっとしたハプニングがありました。映画「愛ってなんだろ」上映目前に、劇場の総支配人から「長崎のあるかたのご要望により上映を遅らせる」旨通達がなされたのです。銀座の映画館で上映猶予させるなんて、相当の権勢家なんだろう、松浦伯爵家かなあ、あるいはもしかしたらなんだかんだ言って真理さんご自身が現れるのかもしれないなあ、などとあれこれ思いながら待っておりますと、大勢の観衆の歓迎を受けながら楚々としたいでたちで登場されましたのは大ファンとして名高い某夫人でした。
ようやく上映された「愛ってなんだろ」、当方は以前一度観覧してはおりますが、あらためて観てみて一段と理解が深まり、大収獲がありました。端的に言えばこの映画は《天地真理》を的確に描き出しています!! 素晴しい完成度の作品です。ひこうき雲さんはご覧になったことがありますか? もしもまだでしたら、いずれご覧になるときにはどうかこの点を意識されながらご覧いただければ幸いです。
上映終了後、三々五々ファンの集い会場に向かいました。会場は先日の40周年祝賀の日に記念写真を撮影した部屋でした。プレミアムボックス未収録映像(「真理ちゃんシリーズ」での歌唱場面)、主催者側秘蔵録画などの上映がありましたが、なんといっても目玉は、上述の長崎在住の某大ファンご所有のコレクション公開でした。スタッフが長崎まで出向いて撮影・編集された映像を鑑賞したのですが、あらゆる真理ちゃんグッズを網羅蒐集されており、おそらく相当の資産を傾けられたのではないか、やっぱり銀座に顔が利くかただけのことはあるなあ、と驚歎すること頻りではありました。
会場の隅ではそれぞれのファンが持ち寄った秘蔵写真展示や真理さんに贈るための寄せ書き用色紙も用意され、至れり尽くせりの楽しいファンの集いではありましたが、当方にはこのお誕生日の主人公がどこでどのように過ごされているのかがとても気がかりでなりませんでした。
shiolaboさんがその研究対象を、ご本人を前にしても「天地真理」と称するのは至極当然の事です。
「天地真理」はもはや一女性ではなく、社会的かつ歴史的な存在と言えるでしょう。その事はご本人自身が最も強く理解されている筈です。
私は中高生の頃の思いを引きずって、親しみを込めて「真理ちゃん」と呼ばせて頂いています。むしろこの方がご本人に対して失礼でしょうね。
shiolaboさんの研究成果を目にする日を楽しみに待っています。
若干の誤解が無いかと恐れるあまりの蛇足ですが...
私が実際にお話させて頂いて得た感触では、シネパトスの支配人はそのとき、遠路はるばる来られる一ファンのことを思って配慮を示し、その事をあの場に参集した全ての人が理解してくれると考えての行動だったと私は思います。彼自身も熱烈な天地真理ファンです。
<わたしは見たい ギターじゃなくて
音にかくれた 秘密の愛のうた>(「風を見た人」より)
ここに示されているのはそのまま、当方の《天地真理》研究の基本理念です。
いずれファンの集いなどでお会いできれば幸いです。もっとも奇矯な扮装をしているのが当方ですので、なにとぞよろしく。
shiolaboさん 酩酊居士さん
コメントありがとうございます。
ご本人に「《天地真理》を研究しています」と言うのも言いずらいところがありますが、「真理さんを研究しています」と言われたら、ご本人はぎょっとされるかもしれませんね。まるでプライバシーを覗かれているような感じに取れるのではないでしょうか。私も本編の『空いっぱいの幸せ』では『天地真理』です。
真理さん自身、いつも《天地真理》を意識して生きてこられたのではないでしょうか。ライブコンサートのタイトル『私は天地真理』がそれを表していると思います。
ひこうき雲さん こんにちは
「赤ちょうちん」聞きました コメントを少し訂正いたします
真理さんの声質のジレンマ等と勝手な憶測で書きこんだ事を申し訳なく思います
オリジナルである かぐや姫の「赤ちょうちん」と聞き比べ 余りの感じられ方の違いに驚きを感じます
かぐや姫のオリジナルは彼らの意思に反したもので 四畳半三部作「神田川 赤ちょうちん 妹」の流れの出発点であった「赤ちょうちん」なのでした 彼らは元々この曲を歌うつもりでは無かったのでしたが 「神田川」の大ヒットによりこの曲を押し付けられたんです
そう思うと南こうせつの声は何処と無く薄く軽い声に聞こえ「神田川」との違いは歴然です
対して真理さんの「赤ちょうちん」の侘しさは何なのでしょうか
美しすぎるオリジナルに比べ真理さんの突き放したかのような歌に今 唖然とするばかりです
侮ったような事を吐いてしまって 真理さんに申し訳ないと思います。。。
TIPさん
コメントありがとうございます。
真理さんの地声は弦楽器で言えば開放弦(弦を指で押さえないで鳴らす状態)みたいな感じがします。ビブラートもないに等しい感じで、つやがないのですね。高音でのファルセットの部分のつやと比べれば明らかだと思います。
それから、それまで地声で歌ったことがなく訓練されていないので、歌い方自体も自在さを欠いているのだと思います。
ただけがの功名というか、そのことが突き放したような、ちょっと虚無的な歌い方になってこのうたの独特な魅力を生んでいるように思います。