2人のAM(2)
前回では真理さんの全盛期に感じていた2人のAM、アマデウス・モーツァルトと天地真理さんの共通の魅力について書きました。
ところが、40年後の今、別の共通点も感じています。それは2人の人生における共通点です。
最近Wikipediadeで知ったのですが、「アマデウス」は通称で「テオフィルス」が本来なようです。「テオフィルス」はギリシア語で「神に愛された者」という意味のようですが、モーツアルト自身はそのラテン語意訳である「アマデウス」を好んで使っていたようです。
実際、モーツァルトは幼少時から天才を発揮して<神童>ともてはやされました。マリア・テレジア女帝の御前演奏でのマリー・アントワネットとの出会いなど有名なエピソードに事欠きません。
しかし、成長して"可愛いアイドル"でなくなってくると次第に人々から忘れ去られていきました。封建領主の庇護から自立してウィーンへ出てからは時に成功もありましたが、常に生活に追われる日々でした。モーツァルトの音楽は時代の先を行っていて、その真価は一般には必ずしも理解されなかったのです。特に晩年は赤貧洗うがごとき生活で、冬もストーブの燃料を買うお金がなく、妻コンスタンツェとダンスをして暖めあっていたというエピソードさえあります。
しかしその間生み出された音楽は奇跡と言うほかない傑作ばかりで、まさに「神に愛された者」というべきものです。しかしミューズの神はあまりにもモーツァルトを愛して、35歳で自分のもとへ召してしまいました。遺体は共同墓地に葬られましたが、当日の悪天候で付添者がなく(異説あり)、墓の位置は不明となってしまいました。まさに地上には音楽以外何の痕跡も残さず消え去ったのです。
そして今でこそモーツァルトは最も人気があり、最も優れた作曲家と評価されていますが、その死後はすっかり忘れ去られていたのです。そしてメンデルスゾーンによって再評価され復活した後も、神格化されたベートーヴェンに比べるとそれほど評価は高くなかったのです。モーツァルトが今のように一般の人たちからも高い評価を得るようになったのは、日本の場合、私の感覚では1960年代後半以後といっていいでしょう。
一方、天地真理さんもやはり「神に愛された者」と言うべき存在でした。真理さんの存在そのものがオーラに包まれていたと言っていいと思います。しかし、そのすさまじい人気にもかかわらず、真理さんもまた<うた>自体は必ずしも理解されていませんでした。真理さんのうたがみんなの心を弾ませたとすれば、うた自体に魅力があったからなのは自明のことです。しかし業界の人たちも一般の大人の多くの人たちも、彼女の魅力をうた以外の外見的なものと見ていました。結局彼女のうたは、全盛期においてはまともな評価をされることがなかったのです。
そして真理さんは、おそらく、自分の真の姿が評価されないというジレンマの中で、疲れ切り、表舞台から姿を消してしまったのです。
しかしモーツァルトの場合と違うのは、真理さんが「再起不能」と言われながら不屈の意志で甦ったことです。その過程については、以前その一端を紹介したことがあります。
しかしその意欲にもかかわらず、復帰後の真理さんにかつての輝きは甦りませんでした。彼女の命である声もミューズに封印されてしまったようにやがて失われてしまいました。
もし、真理さんがアイドル路線ではなく、たとえばフォーク歌手として地道な活動をしていたら、今も歌い続けていられたのではないかという声もよく聞きます。私もそういう夢想をしないわけではありません。しかし、当時まだマイナーな存在であったフォーク歌手であったら、クラシックしか聴いていなかった私のように、普段、歌の世界に縁もなかった人たちまでが彼女を知ることがあったのでしょうか。年代を越えて日本中の人々から愛されるということはあったでしょうか。
歴史とは繰り返されることのない一回限りのものです。歴史の中で「もし」という言葉は私にはあまり意味のあることとは思えません。
もしモーツァルトがもっと長く生きていたら、もっとすばらしい音楽をたくさん残してくれたでしょうか?時代はやはりベートーヴェンのようなわかりやすく意志的な音楽を求めたのではないでしょうか。
芸術と言うものは現れるべき<時>と言うものがあるのではないかと思います。モーツァルトの35年の生涯は短くとも、その時でしかできないことを成し遂げたのであり、それは他の誰も代わることのできないものだったのです。
そして、真理さんにも輝くべき<時>があったのでしょう。ミューズは時と人を選んで私たちに最高の贈り物をしたのです。その<時>をともに生きることができたこと、私はそのかけがえのない幸運をこそよろこびたいと思います。
モーツァルトが35年の生涯で600曲余りの比類のない音楽を200年後の私たちに残したように、真理さんは実質5年ほどの短い期間に200曲ほどのかけがえのないうたを消えることのない記録として私たちに残してくれました。そして今、ファンのもとに眠っていた数々の貴重なライブ録音も、タイムカプセルが開かれるようにYoutubeに公開されています。
モーツァルトの音楽が不遇の時もありながら、いま現代人の心に最も深く響く音楽となったように、真理さんのうたも、今こそ聴かれるべきうたとして甦りつつあるのです。
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コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。
ところが、40年後の今、別の共通点も感じています。それは2人の人生における共通点です。
最近Wikipediadeで知ったのですが、「アマデウス」は通称で「テオフィルス」が本来なようです。「テオフィルス」はギリシア語で「神に愛された者」という意味のようですが、モーツアルト自身はそのラテン語意訳である「アマデウス」を好んで使っていたようです。
実際、モーツァルトは幼少時から天才を発揮して<神童>ともてはやされました。マリア・テレジア女帝の御前演奏でのマリー・アントワネットとの出会いなど有名なエピソードに事欠きません。
しかし、成長して"可愛いアイドル"でなくなってくると次第に人々から忘れ去られていきました。封建領主の庇護から自立してウィーンへ出てからは時に成功もありましたが、常に生活に追われる日々でした。モーツァルトの音楽は時代の先を行っていて、その真価は一般には必ずしも理解されなかったのです。特に晩年は赤貧洗うがごとき生活で、冬もストーブの燃料を買うお金がなく、妻コンスタンツェとダンスをして暖めあっていたというエピソードさえあります。
しかしその間生み出された音楽は奇跡と言うほかない傑作ばかりで、まさに「神に愛された者」というべきものです。しかしミューズの神はあまりにもモーツァルトを愛して、35歳で自分のもとへ召してしまいました。遺体は共同墓地に葬られましたが、当日の悪天候で付添者がなく(異説あり)、墓の位置は不明となってしまいました。まさに地上には音楽以外何の痕跡も残さず消え去ったのです。
そして今でこそモーツァルトは最も人気があり、最も優れた作曲家と評価されていますが、その死後はすっかり忘れ去られていたのです。そしてメンデルスゾーンによって再評価され復活した後も、神格化されたベートーヴェンに比べるとそれほど評価は高くなかったのです。モーツァルトが今のように一般の人たちからも高い評価を得るようになったのは、日本の場合、私の感覚では1960年代後半以後といっていいでしょう。
一方、天地真理さんもやはり「神に愛された者」と言うべき存在でした。真理さんの存在そのものがオーラに包まれていたと言っていいと思います。しかし、そのすさまじい人気にもかかわらず、真理さんもまた<うた>自体は必ずしも理解されていませんでした。真理さんのうたがみんなの心を弾ませたとすれば、うた自体に魅力があったからなのは自明のことです。しかし業界の人たちも一般の大人の多くの人たちも、彼女の魅力をうた以外の外見的なものと見ていました。結局彼女のうたは、全盛期においてはまともな評価をされることがなかったのです。
そして真理さんは、おそらく、自分の真の姿が評価されないというジレンマの中で、疲れ切り、表舞台から姿を消してしまったのです。
しかしモーツァルトの場合と違うのは、真理さんが「再起不能」と言われながら不屈の意志で甦ったことです。その過程については、以前その一端を紹介したことがあります。
しかしその意欲にもかかわらず、復帰後の真理さんにかつての輝きは甦りませんでした。彼女の命である声もミューズに封印されてしまったようにやがて失われてしまいました。
もし、真理さんがアイドル路線ではなく、たとえばフォーク歌手として地道な活動をしていたら、今も歌い続けていられたのではないかという声もよく聞きます。私もそういう夢想をしないわけではありません。しかし、当時まだマイナーな存在であったフォーク歌手であったら、クラシックしか聴いていなかった私のように、普段、歌の世界に縁もなかった人たちまでが彼女を知ることがあったのでしょうか。年代を越えて日本中の人々から愛されるということはあったでしょうか。
歴史とは繰り返されることのない一回限りのものです。歴史の中で「もし」という言葉は私にはあまり意味のあることとは思えません。
もしモーツァルトがもっと長く生きていたら、もっとすばらしい音楽をたくさん残してくれたでしょうか?時代はやはりベートーヴェンのようなわかりやすく意志的な音楽を求めたのではないでしょうか。
芸術と言うものは現れるべき<時>と言うものがあるのではないかと思います。モーツァルトの35年の生涯は短くとも、その時でしかできないことを成し遂げたのであり、それは他の誰も代わることのできないものだったのです。
そして、真理さんにも輝くべき<時>があったのでしょう。ミューズは時と人を選んで私たちに最高の贈り物をしたのです。その<時>をともに生きることができたこと、私はそのかけがえのない幸運をこそよろこびたいと思います。
モーツァルトが35年の生涯で600曲余りの比類のない音楽を200年後の私たちに残したように、真理さんは実質5年ほどの短い期間に200曲ほどのかけがえのないうたを消えることのない記録として私たちに残してくれました。そして今、ファンのもとに眠っていた数々の貴重なライブ録音も、タイムカプセルが開かれるようにYoutubeに公開されています。
モーツァルトの音楽が不遇の時もありながら、いま現代人の心に最も深く響く音楽となったように、真理さんのうたも、今こそ聴かれるべきうたとして甦りつつあるのです。
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