2人のAM
私のYoutubeでのハンドルネームは<amhikokigumo>です。
最初は<hikokigumo>だけで登録しようとしたのですが、すでに登録済みでした。そこで<am>をつけたのですが、これはもちろん<天地真理>の頭文字のAMです。しかし実はもう一人のAMが隠れています。
それは、アマデウス・モーツァルトです。(正確にはウォルフガング・アマデウス・モーツァルト)
私が高校生のころからほとんどクラシックしか聴かなくなっていたということは本編の方に書いたとおりです。
それが大学の頃にはクラシックでもモーツァルトしか興味がないというような状態になっていました。そしてそんな私の前に現れたのが天地真理さんだったのです。
真理さんの<うた>のどこに惹かれたかはやはり本編で書いたとおりですが、一方で真理さんのうたを受け入れる私の側の条件があったと思われます。なぜなら、その頃私は〈歌謡曲〉と言うものにかなり抵抗があって、生理的に嫌悪を感じるものさえあったからです。なのに真理さんだけは例外だったのです。それは直感的に、あるいは生理的に真理さんのうたに共振するような感性が私の側にあったということでしょう。あとで気がつくとそれがモーツァルトだったのです。
モーツァルトの音楽はほとんどが弾むような長調の曲です。モーツァルトは「音楽はひとを楽しませるものでなければならない」と言っていますが、まさにその通りなのです。しかしモーツァルトがちらりと心の中の深淵を見せるのがごくわずかしかない短調曲です。そしてそれらはいずれも大傑作です。交響曲の40番、ピアノ協奏曲の20番、24番、オペラで言えば「ドン・ジョバンニ」、そして遺作となった「レクイエム」などです。
ベートーヴェンやロマン派の音楽に親しんでいた私が最初に惹かれたモーツァルトの音楽はこれら短調作品でした。その頃は、長調作品は劇的変化に乏しくつまらないと思っていたのです。つまりその頃の私は歌舞伎の隈どりのような大げさな表情しか聴きとることができなかったのです。
しかし音楽経験の蓄積と私自身の精神的成長があったのでしょう、次第に長調作品に魅力を感じるようになっていったのです。長調作品の自然でデリケートな表情、横溢する生命力と刻々と変化する陰影、その魅力に一度捉えられると、それ以外の音楽など考えられなくなりました。そんなときに真理さんのうたと出会ったのです。
ここで、モーツァルトの長調作品を聴いてみましょう。ピアノ協奏曲の23番第3楽章の一部です。
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次に天地真理さんのうたを聴いてみましょう。「花ひらくとき」です。
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どうでしょうか?
華やいで弾む曲想、あふれでる生気、みずみずしいときめきと陶酔的な幸福感・・・名前(AM)だけでない共通点が感じられませんか。
ご覧頂いて「あれ?」と思われた方もおられると思いますが、画像が似ていますね。実は全く同じものです。
モーツァルトの方の画像をいろいろつくってみたのですが、どうしても気に入らなくて、ふと思いついて、先にできていた「花ひらくとき」の画像をそのままコピーして入れてみたのです。そうしたら、なんとすべてのタイミングがぴったり合っているのです。モーツァルトの方が少し長いので、その分だけ冒頭部分のコピーを加えましたが、全く同じと言っていいのです。モーツァルトに真理さん自身の画像が出てきてびっくりした方もあると思いますが、こういうわけです。しかし、ここまでピッタリとは私自身驚きました。このあたりにも両者の親近性が感じられる、とまで言うと言い過ぎでしょうか。
アマデウス・モーツァルトと天地真理、この2人のAMの関係に私が気がついたのは「虹をわたって」の頃でした。「虹をわたって」は真理さんの曲の中でもとりわけ単純な曲です。しかし真理さんが歌えば、淡々としたうたから、心のときめき、生きているよろこびが滲み出してきます。
モーツァルトの音楽も一見すると単純なものが多いのです。ですから小さな子供にも親しみやすく“音楽入門”のように聴かれたりします。技術的にもそう難しくはないので少しピアノを弾けるようになるとハ長調のソナチネは必ず弾きます。真理さんも弾いたことがあるはずです。しかし一方、巨匠といわれるピアニストにとってもモーツァルトを弾くということは難しいことなのです。それは単純に見える曲想の中に汲めども尽きない中身があるからです。
小林秀雄はモーツァルトの短調作品を「疾走する悲しみ」と表現し、もともと短調好き、悲劇好きの日本人のモーツァルト観に長く影響を与えました。しかし私は(この言葉を借用すれば)モーツァルトの音楽の本質は「疾走するよろこび」だと思います。一つ一つの音が、今、そこで生まれ出たよろこびを呼吸し、同時に、一瞬にして消えていくはかなさも内蔵しているのです。だからモーツァルトの音楽には、一瞬一瞬の音の変化に、人間のよろこび、かなしみ、つまり生きることのすべてが詰まっているのです。
真理さんのうたにも生まれ出たばかりの新鮮なよろこびが息づいています。かつて日本中の人々を魅了したのもこの命のよろこびだったのです。同時に、天性の声質と、風のようにさりげなく刻々と変化する表情が、ほんのりとしたはかなさを感じさせ、それがまた生きるよろこびをくっきりと浮かび上がらせるのです。
もちろんモーツァルトと真理さんにはちがったところも当然あります。そもそも作曲家と歌手という違いがあります。また、単純とは言ってもモーツァルトの音楽は真理さんの歌に比べればはるかに複雑です。長調曲といってもその中では複雑な転調が行われ短調の部分も含んでいます。したがってモーツァルトと真理さんを同列に論じようというのではありません。
しかし、両者の間にはたしかに響きあうものがあると私は感じているのです。そこに私が真理さんのうたに惹かれた必然性があったということは理解していただけたのではないでしょうか。
アーカイブ(過去記事)へ 「空いっぱいの幸せ」INDEXへ
コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。
最初は<hikokigumo>だけで登録しようとしたのですが、すでに登録済みでした。そこで<am>をつけたのですが、これはもちろん<天地真理>の頭文字のAMです。しかし実はもう一人のAMが隠れています。
それは、アマデウス・モーツァルトです。(正確にはウォルフガング・アマデウス・モーツァルト)
私が高校生のころからほとんどクラシックしか聴かなくなっていたということは本編の方に書いたとおりです。
それが大学の頃にはクラシックでもモーツァルトしか興味がないというような状態になっていました。そしてそんな私の前に現れたのが天地真理さんだったのです。
真理さんの<うた>のどこに惹かれたかはやはり本編で書いたとおりですが、一方で真理さんのうたを受け入れる私の側の条件があったと思われます。なぜなら、その頃私は〈歌謡曲〉と言うものにかなり抵抗があって、生理的に嫌悪を感じるものさえあったからです。なのに真理さんだけは例外だったのです。それは直感的に、あるいは生理的に真理さんのうたに共振するような感性が私の側にあったということでしょう。あとで気がつくとそれがモーツァルトだったのです。
モーツァルトの音楽はほとんどが弾むような長調の曲です。モーツァルトは「音楽はひとを楽しませるものでなければならない」と言っていますが、まさにその通りなのです。しかしモーツァルトがちらりと心の中の深淵を見せるのがごくわずかしかない短調曲です。そしてそれらはいずれも大傑作です。交響曲の40番、ピアノ協奏曲の20番、24番、オペラで言えば「ドン・ジョバンニ」、そして遺作となった「レクイエム」などです。
ベートーヴェンやロマン派の音楽に親しんでいた私が最初に惹かれたモーツァルトの音楽はこれら短調作品でした。その頃は、長調作品は劇的変化に乏しくつまらないと思っていたのです。つまりその頃の私は歌舞伎の隈どりのような大げさな表情しか聴きとることができなかったのです。
しかし音楽経験の蓄積と私自身の精神的成長があったのでしょう、次第に長調作品に魅力を感じるようになっていったのです。長調作品の自然でデリケートな表情、横溢する生命力と刻々と変化する陰影、その魅力に一度捉えられると、それ以外の音楽など考えられなくなりました。そんなときに真理さんのうたと出会ったのです。
ここで、モーツァルトの長調作品を聴いてみましょう。ピアノ協奏曲の23番第3楽章の一部です。
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どうでしょうか?
華やいで弾む曲想、あふれでる生気、みずみずしいときめきと陶酔的な幸福感・・・名前(AM)だけでない共通点が感じられませんか。
ご覧頂いて「あれ?」と思われた方もおられると思いますが、画像が似ていますね。実は全く同じものです。
モーツァルトの方の画像をいろいろつくってみたのですが、どうしても気に入らなくて、ふと思いついて、先にできていた「花ひらくとき」の画像をそのままコピーして入れてみたのです。そうしたら、なんとすべてのタイミングがぴったり合っているのです。モーツァルトの方が少し長いので、その分だけ冒頭部分のコピーを加えましたが、全く同じと言っていいのです。モーツァルトに真理さん自身の画像が出てきてびっくりした方もあると思いますが、こういうわけです。しかし、ここまでピッタリとは私自身驚きました。このあたりにも両者の親近性が感じられる、とまで言うと言い過ぎでしょうか。
アマデウス・モーツァルトと天地真理、この2人のAMの関係に私が気がついたのは「虹をわたって」の頃でした。「虹をわたって」は真理さんの曲の中でもとりわけ単純な曲です。しかし真理さんが歌えば、淡々としたうたから、心のときめき、生きているよろこびが滲み出してきます。
モーツァルトの音楽も一見すると単純なものが多いのです。ですから小さな子供にも親しみやすく“音楽入門”のように聴かれたりします。技術的にもそう難しくはないので少しピアノを弾けるようになるとハ長調のソナチネは必ず弾きます。真理さんも弾いたことがあるはずです。しかし一方、巨匠といわれるピアニストにとってもモーツァルトを弾くということは難しいことなのです。それは単純に見える曲想の中に汲めども尽きない中身があるからです。
小林秀雄はモーツァルトの短調作品を「疾走する悲しみ」と表現し、もともと短調好き、悲劇好きの日本人のモーツァルト観に長く影響を与えました。しかし私は(この言葉を借用すれば)モーツァルトの音楽の本質は「疾走するよろこび」だと思います。一つ一つの音が、今、そこで生まれ出たよろこびを呼吸し、同時に、一瞬にして消えていくはかなさも内蔵しているのです。だからモーツァルトの音楽には、一瞬一瞬の音の変化に、人間のよろこび、かなしみ、つまり生きることのすべてが詰まっているのです。
真理さんのうたにも生まれ出たばかりの新鮮なよろこびが息づいています。かつて日本中の人々を魅了したのもこの命のよろこびだったのです。同時に、天性の声質と、風のようにさりげなく刻々と変化する表情が、ほんのりとしたはかなさを感じさせ、それがまた生きるよろこびをくっきりと浮かび上がらせるのです。
もちろんモーツァルトと真理さんにはちがったところも当然あります。そもそも作曲家と歌手という違いがあります。また、単純とは言ってもモーツァルトの音楽は真理さんの歌に比べればはるかに複雑です。長調曲といってもその中では複雑な転調が行われ短調の部分も含んでいます。したがってモーツァルトと真理さんを同列に論じようというのではありません。
しかし、両者の間にはたしかに響きあうものがあると私は感じているのです。そこに私が真理さんのうたに惹かれた必然性があったということは理解していただけたのではないでしょうか。
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