没入し体験されるべき芸術
「もういちど流行歌」の話題が入ったのでだいぶ間が空いてしまいましたが、8月25日の朝日新聞に面白い文章がありました。(磯崎憲一郎「文芸時評」)
音楽の授業でモーツァルトの交響曲を聴いて、「作曲者の意図を述べなさい」という課題が出されることはないし、美術の授業でセザンヌの作品を見て、「画家の伝えたかったことを述べなさい」という課題が出されることもない。ところが国語の小説の場合は、「傍線部の作者の意図を三十字以内で述べなさい」という問題が当然のように出される。ここに大きな間違いがある。文字で表記されているという見た目は似ていても、小説は論説文や新聞記事とは違う、音楽や美術と同じ仲間の、没入し体験されるべき芸術なのだ。・・・
たしかに音楽や美術では「自分が何を感じたか」ということが何より大事なことです。一方、小説などの文学は「言葉」を使った表現であることから、どうしてもその「意味」にこだわってしまいます。しかし文学も文体やリズムなども含めた芸術表現だというのですね。詩や短歌ならまさにそうですね。「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」という一句の魅力は「意味」では説明できません。「汚れてしまった悲しみの上に、今日も小雪が降りかかって来る」では、原文の繊細な心が伝わってこないのです。意味だけでなく、言葉の選択、文体、リズムといったものが総合されてひとつの芸術表現になっているのです。そして時評の筆者は散文である小説でもそうだというのですね。
私はこの短い時評から<表現>ということについてあらためて考えさせられましたが、そのうえで「逆もあるのではないか」とも考えました。
時評の見出しは「(小説を)音楽や美術のように読む」というのですが、「逆」というのは、音楽や美術が(一般的な)小説の読み方のような聴き方、見方になっていないか、ということです。『音楽の授業でモーツァルトの交響曲を聴いて、「作曲者の意図を述べなさい」という課題が出されることはない』でしょうか?授業ではともかく、世にあふれている音楽評論の大部分はむしろそうしたものになっているとは言えないでしょうか。単に好きか嫌いかと言った次元のものは別としても、もっともらしく書かれたものも、音楽(演奏、歌唱)そのものを論じるのではなく、歌詞の意味やそこから類推するストーリー、歌手の人生、作詞・作曲家の情報、当時の音楽の流行事情、社会状況との関連といったことで<うた>を論じたように思っているものも多いと思います。さらには販売・広報戦略、芸能界の裏情報などまったくの周辺事情を事情通のように得意げに書いているものも多いのです。(と言っても私はそうたくさんの評論を読んでいるわけではないので主観的かもしれませんが)
前々回紹介した「名盤ドキュメント」にもそういうところがありました。この番組は音楽(歌)そのものもよく論じていたと思いますが、この歌を聴いた人はどう感じたのか、ということについては充分には触れられていなかったように思います。
天地真理さんの<うた>については当時はもちろん、ようやく彼女の<うた>の素晴らしさが再認識されてきた今でもそんな傾向がより顕著なように感じます。
そこで、私自身がどうしたら彼女の<うた>そのものを論じることができるだろうかと試みたのがホームページ「空いっぱいの幸せ」の中の「若葉のささやき(アルバム別各曲寸評)」でした。もちろん私の力量では拙い分析しかできませんでしたが、より力量のある方々がそれを土台にしてさらにすぐれたものを生み出してほしいという思いで公開しています。ひところはそういう私の願いが実現しそうな気配もあったのですが、最近では低調です。このブログだけでなく、他のブログや掲示板などでのさまざまな意見交換も少なくなってしまいました。それが私の主観的な思い込みであればいいと思いますが。
最後に「名盤ドキュメント」のなかで紹介された真理さんのセカンドアルバムから「好きだから」をお聴きください。併せて上記ホームページでの私の寸評も載せておきます。
(動画はma4ever100さんの作品です。なお埋め込みができませんがkei sukeさんの作品もあります。)
はじけるようなよろこびがあふれる曲。出だしの「はじめての」「好きだから」というところはもぎたての果物のような鮮烈さで、たちまち聴く者の心を幸福感で満たしてしまう。はっきりしたアクセントがリズムを弾ませて(たとえば「ほんとに好きだから」)曲が高揚し、いったん区切りをつけた後「赤い花束」につづくフレーズになると深く強い声になってオペラチックと言ってもいいくらいスケールの大きな展開となる。その後の彼女の歌ではこういう発声は次第に影をひそめてしまい、洗練された、あるいは抑制された発声になっていく。それはそれでとても魅力的なのだが、私はこういう伸び伸びとした発声もとても好きである。この曲も他の"アイドル"が歌えばもっとかわいい、ちょっと媚びた歌になるのだろうと思うが、彼女が歌うとほんとうに生命力に満ちたスケールの大きな歌になる。彼女にはそういうスケールの大きな歌を歌える力が十分あったし、そういう面をもっと展開していたら一般の人のもつ「天地真理」のイメージもずいぶん違ったものになったのではないか、と少し悔しい気もするのだ。ともかく、この曲はそういう可能性を感じさせながらも、自然な若さの奔流が心をうきうきとさせてくれる。
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コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。
音楽の授業でモーツァルトの交響曲を聴いて、「作曲者の意図を述べなさい」という課題が出されることはないし、美術の授業でセザンヌの作品を見て、「画家の伝えたかったことを述べなさい」という課題が出されることもない。ところが国語の小説の場合は、「傍線部の作者の意図を三十字以内で述べなさい」という問題が当然のように出される。ここに大きな間違いがある。文字で表記されているという見た目は似ていても、小説は論説文や新聞記事とは違う、音楽や美術と同じ仲間の、没入し体験されるべき芸術なのだ。・・・
たしかに音楽や美術では「自分が何を感じたか」ということが何より大事なことです。一方、小説などの文学は「言葉」を使った表現であることから、どうしてもその「意味」にこだわってしまいます。しかし文学も文体やリズムなども含めた芸術表現だというのですね。詩や短歌ならまさにそうですね。「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」という一句の魅力は「意味」では説明できません。「汚れてしまった悲しみの上に、今日も小雪が降りかかって来る」では、原文の繊細な心が伝わってこないのです。意味だけでなく、言葉の選択、文体、リズムといったものが総合されてひとつの芸術表現になっているのです。そして時評の筆者は散文である小説でもそうだというのですね。
私はこの短い時評から<表現>ということについてあらためて考えさせられましたが、そのうえで「逆もあるのではないか」とも考えました。
時評の見出しは「(小説を)音楽や美術のように読む」というのですが、「逆」というのは、音楽や美術が(一般的な)小説の読み方のような聴き方、見方になっていないか、ということです。『音楽の授業でモーツァルトの交響曲を聴いて、「作曲者の意図を述べなさい」という課題が出されることはない』でしょうか?授業ではともかく、世にあふれている音楽評論の大部分はむしろそうしたものになっているとは言えないでしょうか。単に好きか嫌いかと言った次元のものは別としても、もっともらしく書かれたものも、音楽(演奏、歌唱)そのものを論じるのではなく、歌詞の意味やそこから類推するストーリー、歌手の人生、作詞・作曲家の情報、当時の音楽の流行事情、社会状況との関連といったことで<うた>を論じたように思っているものも多いと思います。さらには販売・広報戦略、芸能界の裏情報などまったくの周辺事情を事情通のように得意げに書いているものも多いのです。(と言っても私はそうたくさんの評論を読んでいるわけではないので主観的かもしれませんが)
前々回紹介した「名盤ドキュメント」にもそういうところがありました。この番組は音楽(歌)そのものもよく論じていたと思いますが、この歌を聴いた人はどう感じたのか、ということについては充分には触れられていなかったように思います。
天地真理さんの<うた>については当時はもちろん、ようやく彼女の<うた>の素晴らしさが再認識されてきた今でもそんな傾向がより顕著なように感じます。
そこで、私自身がどうしたら彼女の<うた>そのものを論じることができるだろうかと試みたのがホームページ「空いっぱいの幸せ」の中の「若葉のささやき(アルバム別各曲寸評)」でした。もちろん私の力量では拙い分析しかできませんでしたが、より力量のある方々がそれを土台にしてさらにすぐれたものを生み出してほしいという思いで公開しています。ひところはそういう私の願いが実現しそうな気配もあったのですが、最近では低調です。このブログだけでなく、他のブログや掲示板などでのさまざまな意見交換も少なくなってしまいました。それが私の主観的な思い込みであればいいと思いますが。
最後に「名盤ドキュメント」のなかで紹介された真理さんのセカンドアルバムから「好きだから」をお聴きください。併せて上記ホームページでの私の寸評も載せておきます。
(動画はma4ever100さんの作品です。なお埋め込みができませんがkei sukeさんの作品もあります。)
はじけるようなよろこびがあふれる曲。出だしの「はじめての」「好きだから」というところはもぎたての果物のような鮮烈さで、たちまち聴く者の心を幸福感で満たしてしまう。はっきりしたアクセントがリズムを弾ませて(たとえば「ほんとに好きだから」)曲が高揚し、いったん区切りをつけた後「赤い花束」につづくフレーズになると深く強い声になってオペラチックと言ってもいいくらいスケールの大きな展開となる。その後の彼女の歌ではこういう発声は次第に影をひそめてしまい、洗練された、あるいは抑制された発声になっていく。それはそれでとても魅力的なのだが、私はこういう伸び伸びとした発声もとても好きである。この曲も他の"アイドル"が歌えばもっとかわいい、ちょっと媚びた歌になるのだろうと思うが、彼女が歌うとほんとうに生命力に満ちたスケールの大きな歌になる。彼女にはそういうスケールの大きな歌を歌える力が十分あったし、そういう面をもっと展開していたら一般の人のもつ「天地真理」のイメージもずいぶん違ったものになったのではないか、と少し悔しい気もするのだ。ともかく、この曲はそういう可能性を感じさせながらも、自然な若さの奔流が心をうきうきとさせてくれる。
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