証言 天地真理の時代
今日11月5日は天地真理さんの誕生日です。
真理さん お誕生日 おめでとうございます
さて、以前この日はリクエスト特集をやってきましたが、リクエストが少なくなったので昨年からは別の話題で書いています。
今年はどうしようかとだいぶ迷ったのですが、全盛期の真理さん、あるいは真理さんをどう受け止めたかについての様々な証言をまとめてみました。「天地真理の時代」の空気を再現してみようというわけです。
証言はいずれもネットで見つけて保存しておいたものです。
※ 出典はしっかり記録してなかったので不明のものが多く、明記してありません。もしご本人などで不都合がありましたらご連絡ください。
最初は当時の高校生の証言です。
その年の10月1日、デビュー・シングル「水色の恋」を出す。・・・これがかなりの数売れて、最高位オリコン3位まで上った。
うなぎのぼりの人気、12月21日にはデビュー・アルバム「水色の恋/涙から明日へ」・・・これがオリコンのトップに躍り出たのだ。・・・
我が高校のクラスでは、8割の男子生徒、5割の女子生徒が天地真理ファンとなっていった。入学当初、私と永遠のサユリスト(吉永小百合の熱心なファン)であることを誓い合ったS君の下敷きに鋏んであった写真も、「潮騒」の時の小百合嬢から、いつの間にかベレー帽を被った真理ちゃんに変わっていた。・・・
続けて出したシングル、「ちいさな恋」(72年2月)でオリコン1位。その後も「ひとりじゃないの」(72年6月)、「虹をわたって」(72年9月)、「若葉のささやき」(73年3月)、「恋する夏の日」(73年7月)、全部で5曲がオリコンで1位になり、当時驚異的な記録を作った。最近では作為的にチャート・ランクを上げる方法が横行しているが、純粋な人気という点ではその後のどんなアーティストも、この時の天地真理を凌ぐことはあり得ないと思う。
私が高校3年生の時、天地真理が名古屋市の催し物場にやってくるということで大変な騒ぎになった。そのコンサートは平日の昼過ぎ、いわば授業中に行なわれるのである。柔道部の同級生であるK君も彼女の熱狂的なファンでぜひ見に行きたく、担任の先生に相談に行ったのだという。「『授業を受けるか、天地真理を見に行くか、将来の自分にとってどっちが大切かよく考えて見ろ』と言われた。当然、天地真理の方だから、俺は見に行く」と宣言して彼は揚々と早退していった。
・・・結局、その日は見物客が多すぎて大混乱しコンサートが中止になったと、K君は大憤慨して帰ってきた。そして武道場で、後輩たちを容赦なく投げ飛ばしていた。
当時3歳の人の回想です。
時間ですよ~の頃は私は3才位てした。真理ちゃん劇場も毎週楽しみで優しいお姫様か優しい保母さんの様な真理ちゃんに子供ながらに心がキラキラして癒されてました。
1人っこで、そして母が美容院をしていたので忙しくて いつも居なくテレビが楽しみでした。アイドルとしての憧れと、こんなお姉さんいたらいいななんておもってました。
実際に真理さんを見た人は・・・
私は子供のころは軽井沢に住んでいたのですが・・・軽井沢では、今でも有名人に出会うこともあるけど、子供のころに、人気絶頂期の天地真理を見たときは、本当に輝いて見えた。今で言う、オーラが出ているってことなのかも。(世の中にこんなにきれいな人がいるのかと本当に思いました。)
子どもたちだけではありません。学校の先生も・・・
私が小学校に通ってた頃、先生との距離は近かった。特に5、6年のときの担任のN先生はすっごく怖かったけど、放課後はよく一緒に遊んだ。
この先生は当時30代半ばで独身だった。顔のエラがはっていて「げた」と呼ばれていた。
天地真理の大ファンだった。ママさんバレーの鬼コーチだった。
ある日の放課後、私と I 君がN先生に呼ばれた。
「ちょっとついてきてくれヘんか」、と言う。言われるままに先生の車に乗った。連れて行かれた先は隣駅にある三和銀行だった。
天地真理がその頃、その銀行のポスターに使われていた。
入り口にある大きなポスターをもらってくれ、と先生は言う。
「I ~、このお金を貯金したいって言うんや」、と先生はポケットから小銭をじゃらじゃら出した。
「で、S~(私の旧姓です)。すみませんが天地真理のあの大きなポスターがあれば一枚いただけませんか?、ってそこでゆうてくれ。ええかぁ、はっきり言うんやで」
先生は真剣だった。私と I 君は先生に言われた通りカウンターのお姉さんに言って任務をやり遂げた。
車に乗ると先生は自分のアパートまで私と I 君を連れてった。ポスターを壁に貼るから手伝ってくれ、と言う。たしかに大きなポスターだったので先生がひとりで貼るのは難しそうだった。
先生の家は前にどぶ川が流れる古い古い長屋にあった。そこに天地真理のポスターはとっても不釣合いな気がしたが。貼り終えたとき、先生はとっても満足そうだった。
南沙織ファンも・・・
ああ「アイドル」ですか
私には南沙織なんです
当時一番人気は天地真理
もう誰がなんと言おうと天地真理でした
やはり当時子供だった人でしょうが、誰もが認めることでしょう。
あの頃は天地真理がテレビに出ない日はなかったですものね。
日本中が真理ちゃんを中心にまわっていたといっても過言ではないくらい・・・。
後にも先にもあんな人は出てきませんね。
み~んな真理ちゃんが好きでしたよね。
あの頃の真理ちゃんには誰もかなわない、
もうあんなアイドルは出てこないと思います。
以上は当時の真理さんについての様々な証言です。その中には事実もあれば主観的な印象もあります。「み~んな真理ちゃんが好きでしたよね」というのはそうでない人も実際いたのは確かですから事実としては正確ではありません。しかしそう思わせる勢いが当時の真理さんの人気にはあったということは、ファンでなくとも当時を知る人には”事実”だと思います。それは数字のような客観的な裏付けは無くてもひとつの”事実”であって、以前も触れたように、そういう”事実”抜きに“時代”を語ることはできないと私は思っています。
アーカイブ(過去記事)へ
ホームページ「空いっぱいの幸せ」へ
コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。
真理さん お誕生日 おめでとうございます
さて、以前この日はリクエスト特集をやってきましたが、リクエストが少なくなったので昨年からは別の話題で書いています。
今年はどうしようかとだいぶ迷ったのですが、全盛期の真理さん、あるいは真理さんをどう受け止めたかについての様々な証言をまとめてみました。「天地真理の時代」の空気を再現してみようというわけです。
証言はいずれもネットで見つけて保存しておいたものです。
※ 出典はしっかり記録してなかったので不明のものが多く、明記してありません。もしご本人などで不都合がありましたらご連絡ください。
最初は当時の高校生の証言です。
その年の10月1日、デビュー・シングル「水色の恋」を出す。・・・これがかなりの数売れて、最高位オリコン3位まで上った。
うなぎのぼりの人気、12月21日にはデビュー・アルバム「水色の恋/涙から明日へ」・・・これがオリコンのトップに躍り出たのだ。・・・
我が高校のクラスでは、8割の男子生徒、5割の女子生徒が天地真理ファンとなっていった。入学当初、私と永遠のサユリスト(吉永小百合の熱心なファン)であることを誓い合ったS君の下敷きに鋏んであった写真も、「潮騒」の時の小百合嬢から、いつの間にかベレー帽を被った真理ちゃんに変わっていた。・・・
続けて出したシングル、「ちいさな恋」(72年2月)でオリコン1位。その後も「ひとりじゃないの」(72年6月)、「虹をわたって」(72年9月)、「若葉のささやき」(73年3月)、「恋する夏の日」(73年7月)、全部で5曲がオリコンで1位になり、当時驚異的な記録を作った。最近では作為的にチャート・ランクを上げる方法が横行しているが、純粋な人気という点ではその後のどんなアーティストも、この時の天地真理を凌ぐことはあり得ないと思う。
私が高校3年生の時、天地真理が名古屋市の催し物場にやってくるということで大変な騒ぎになった。そのコンサートは平日の昼過ぎ、いわば授業中に行なわれるのである。柔道部の同級生であるK君も彼女の熱狂的なファンでぜひ見に行きたく、担任の先生に相談に行ったのだという。「『授業を受けるか、天地真理を見に行くか、将来の自分にとってどっちが大切かよく考えて見ろ』と言われた。当然、天地真理の方だから、俺は見に行く」と宣言して彼は揚々と早退していった。
・・・結局、その日は見物客が多すぎて大混乱しコンサートが中止になったと、K君は大憤慨して帰ってきた。そして武道場で、後輩たちを容赦なく投げ飛ばしていた。
当時3歳の人の回想です。
時間ですよ~の頃は私は3才位てした。真理ちゃん劇場も毎週楽しみで優しいお姫様か優しい保母さんの様な真理ちゃんに子供ながらに心がキラキラして癒されてました。
1人っこで、そして母が美容院をしていたので忙しくて いつも居なくテレビが楽しみでした。アイドルとしての憧れと、こんなお姉さんいたらいいななんておもってました。
実際に真理さんを見た人は・・・
私は子供のころは軽井沢に住んでいたのですが・・・軽井沢では、今でも有名人に出会うこともあるけど、子供のころに、人気絶頂期の天地真理を見たときは、本当に輝いて見えた。今で言う、オーラが出ているってことなのかも。(世の中にこんなにきれいな人がいるのかと本当に思いました。)
子どもたちだけではありません。学校の先生も・・・
私が小学校に通ってた頃、先生との距離は近かった。特に5、6年のときの担任のN先生はすっごく怖かったけど、放課後はよく一緒に遊んだ。
この先生は当時30代半ばで独身だった。顔のエラがはっていて「げた」と呼ばれていた。
天地真理の大ファンだった。ママさんバレーの鬼コーチだった。
ある日の放課後、私と I 君がN先生に呼ばれた。
「ちょっとついてきてくれヘんか」、と言う。言われるままに先生の車に乗った。連れて行かれた先は隣駅にある三和銀行だった。
天地真理がその頃、その銀行のポスターに使われていた。
入り口にある大きなポスターをもらってくれ、と先生は言う。
「I ~、このお金を貯金したいって言うんや」、と先生はポケットから小銭をじゃらじゃら出した。
「で、S~(私の旧姓です)。すみませんが天地真理のあの大きなポスターがあれば一枚いただけませんか?、ってそこでゆうてくれ。ええかぁ、はっきり言うんやで」
先生は真剣だった。私と I 君は先生に言われた通りカウンターのお姉さんに言って任務をやり遂げた。
車に乗ると先生は自分のアパートまで私と I 君を連れてった。ポスターを壁に貼るから手伝ってくれ、と言う。たしかに大きなポスターだったので先生がひとりで貼るのは難しそうだった。
先生の家は前にどぶ川が流れる古い古い長屋にあった。そこに天地真理のポスターはとっても不釣合いな気がしたが。貼り終えたとき、先生はとっても満足そうだった。
南沙織ファンも・・・
ああ「アイドル」ですか
私には南沙織なんです
当時一番人気は天地真理
もう誰がなんと言おうと天地真理でした
やはり当時子供だった人でしょうが、誰もが認めることでしょう。
あの頃は天地真理がテレビに出ない日はなかったですものね。
日本中が真理ちゃんを中心にまわっていたといっても過言ではないくらい・・・。
後にも先にもあんな人は出てきませんね。
み~んな真理ちゃんが好きでしたよね。
あの頃の真理ちゃんには誰もかなわない、
もうあんなアイドルは出てこないと思います。
以上は当時の真理さんについての様々な証言です。その中には事実もあれば主観的な印象もあります。「み~んな真理ちゃんが好きでしたよね」というのはそうでない人も実際いたのは確かですから事実としては正確ではありません。しかしそう思わせる勢いが当時の真理さんの人気にはあったということは、ファンでなくとも当時を知る人には”事実”だと思います。それは数字のような客観的な裏付けは無くてもひとつの”事実”であって、以前も触れたように、そういう”事実”抜きに“時代”を語ることはできないと私は思っています。
アーカイブ(過去記事)へ
ホームページ「空いっぱいの幸せ」へ
コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。