無化粧・沖縄・まりちゃんズ (1)
1975年の8月頃、ある番組に出演した真理さんのお話を聞いてください。
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この司会の人は誰なのでしょう?真理さんとは以前からの知り合いみたいですね。「2年ぶり」と言っていますから、そう身近な人ではないのでしょうが、わりと親しさも感じているような雰囲気ですね。私はマスコミや芸能関係の人に疎いので、もしかしたら皆さんはすぐわかる人かもしれませんね。わかる人がおられましたら、教えてください。
(※ 下のコメントにもあるように、この司会者はケメこと佐藤公彦さんと思われます。 2014.10追記)
ともかくこの司会者のせいか、ここでは真理さんもとてもリラックスして話しているように感じます。司会者の言葉に「ギョギョ!」とか言っているのは普段あまり聞かない反応で、とてもくつろいでいるのがわかります。
そして、その会話の中で、今日は無化粧と言っています。司会者も「お化粧しないでこんなきれいな人はいない。新人がデビューしたみたいな新鮮さがある」と絶賛しています。
しかし、なぜ無化粧なのでしょうか?芸能人が化粧しないでお客さんの前に立つということは普通ないでしょう。それも真理さんのようなスーパースターが化粧しないなんて、あり得ないことのように思えます。
しかし、ここには当時の女性解放への動きと、真理さん自身の生き方の転換という2つの要素があると思います。
70年代前後は世界中に“若者の反乱”が広がった時期です。その共通の軸がベトナム反戦運動で、そこにさまざまな運動が連結していました。アメリカでは公民権運動が最高潮に達し、フランスでは学園民主化に端を発した五月革命が西欧諸国にも波及、中国文化大革命も歴史的評価は別としても紅衛兵の登場という事態にはその空気はつながっていたと私は思います。日本でも、ベトナム反戦運動が激しさを増す中、日大、東大から始まった学園闘争が燎原の火のように全国に拡大していきました。
テーマはさまざまなのにこうした動きが同時期に連動するように起きてきたのは、その根底にエスタブリッシュメント(既成の権威)への抵抗ということがあったからです。
したがって、それは政治的次元を超えて、身近なさまざまな権威、価値観を問い直す文化運動としての性格も持つようになっていきました。プロの作詞・作曲の“先生”から与えられた歌を歌うということに違和感を感じ、自分の生活実感や思想を自分の言葉で表現しようと言うところから始まったフォークソングもそうした流れの中にあったのです。そして、女性解放の運動も同様の流れの中でそれまでにない質を持つようになったのです。
当時の女性の状況は、日本国憲法で平等の権利を保障されているのに、実際は依然、男性に従属せざるをえない立場に置かれていました。第一に、仕事を持つ女性は少なく、持っていても補助的な仕事で低賃金、結婚すれば退職を迫られる“職場の花”でしかなかったのです。したがって、ほとんどの女性は自立できる経済力がなく、結婚が将来の生活を保障する唯一の道といってもよい状態でした。
そこでこの時期の女性解放の運動は、そうした従属的な地位からの脱却を目指し、従来のような法的権利の獲得や、〈主婦〉の立場での経済的権利の拡大ではなく、実質的な平等化を求めるようになります。アメリカに始まった「ウーマンリブ」運動です。日本では「中ピ連」の直接行動ばかりがマスコミを賑せましたが、もっと広範な形で、従属的な文化の拒否という文化運動の面も持つことになりました。たとえば、ブラジャーをしないという人たちもありました。今だったらそれはよりセクシーに見せるためと思われてしまうかもしれませんが、当時、それが運動になったのは、不自然な手段を使って美しく見せることは男に対する媚びと考え、それを拒否したのです。そうすると当然、飾ることはすべてそういう意味を持ってきますから、できるだけ飾らない、ジーパンとTシャツといった日常的な服装をしようとします。そしてそれは、フォークソングが大衆化していったように、普通の女性たちにも急速に広がっていきました。その流れの中で、化粧もやめようと考える人たちが増えてきました。ですから、化粧しないという人たちは結構多かったのではないでしょうか。少なくともブラジャーをやめた人よりは多かったと思います。
真理さんは女性解放運動の闘士であったわけではありません。そういう意味ではごく普通の女性であったと思います。しかしそういう普通の女性でも、化粧しないことが自分らしい自然なあり方、と考えた、いわば時代の空気のようなものがあったと思うのです。
型にはめられた生き方ではなく、自分らしく自由に生きたい、これこそ、さまざまな運動のかたちをとりながら、この時代の若者たちが追い求めたテーマだったと思います。そして、真理さんもまた、痛切にそういう願いを持っていたと思います。デビュー以来、徹底的に管理された生活を送ってきた真理さんが、はっきりとそういう願いを公の場で発言し始めたのがちょうどこの頃でした。はじめて仕事を離れて行った3月のパリ旅行、「天地真理」でなくていい時間を過ごした経験がそういう転換をもたらしたのかもしれません。「無化粧」もそういう意志の表れだったと思います。ある意味で、ここでのさりげない「無化粧」という発言は、真理さんの“人間宣言”だったと言ってもよいのではないでしょうか。
しかし、実際にはそれはかなり勇気のいることだったはずです。何といっても人気商売ですから、そのことの影響を周りのスタッフは心配したでしょう。真理さんの無化粧を「ああ、いいね」とあっさり認めてくれたのでしょうか。具体的なやり取りがどうであったかはわかりません。しかし、ワタナベプロとの関係が次第にきしみ始めたのはこの頃ではないかと私は考えています。そのことに当時どれだけの人が気づいていたでしょうか。
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この司会の人は誰なのでしょう?真理さんとは以前からの知り合いみたいですね。「2年ぶり」と言っていますから、そう身近な人ではないのでしょうが、わりと親しさも感じているような雰囲気ですね。私はマスコミや芸能関係の人に疎いので、もしかしたら皆さんはすぐわかる人かもしれませんね。わかる人がおられましたら、教えてください。
(※ 下のコメントにもあるように、この司会者はケメこと佐藤公彦さんと思われます。 2014.10追記)
ともかくこの司会者のせいか、ここでは真理さんもとてもリラックスして話しているように感じます。司会者の言葉に「ギョギョ!」とか言っているのは普段あまり聞かない反応で、とてもくつろいでいるのがわかります。
そして、その会話の中で、今日は無化粧と言っています。司会者も「お化粧しないでこんなきれいな人はいない。新人がデビューしたみたいな新鮮さがある」と絶賛しています。
しかし、なぜ無化粧なのでしょうか?芸能人が化粧しないでお客さんの前に立つということは普通ないでしょう。それも真理さんのようなスーパースターが化粧しないなんて、あり得ないことのように思えます。
しかし、ここには当時の女性解放への動きと、真理さん自身の生き方の転換という2つの要素があると思います。
70年代前後は世界中に“若者の反乱”が広がった時期です。その共通の軸がベトナム反戦運動で、そこにさまざまな運動が連結していました。アメリカでは公民権運動が最高潮に達し、フランスでは学園民主化に端を発した五月革命が西欧諸国にも波及、中国文化大革命も歴史的評価は別としても紅衛兵の登場という事態にはその空気はつながっていたと私は思います。日本でも、ベトナム反戦運動が激しさを増す中、日大、東大から始まった学園闘争が燎原の火のように全国に拡大していきました。
テーマはさまざまなのにこうした動きが同時期に連動するように起きてきたのは、その根底にエスタブリッシュメント(既成の権威)への抵抗ということがあったからです。
したがって、それは政治的次元を超えて、身近なさまざまな権威、価値観を問い直す文化運動としての性格も持つようになっていきました。プロの作詞・作曲の“先生”から与えられた歌を歌うということに違和感を感じ、自分の生活実感や思想を自分の言葉で表現しようと言うところから始まったフォークソングもそうした流れの中にあったのです。そして、女性解放の運動も同様の流れの中でそれまでにない質を持つようになったのです。
当時の女性の状況は、日本国憲法で平等の権利を保障されているのに、実際は依然、男性に従属せざるをえない立場に置かれていました。第一に、仕事を持つ女性は少なく、持っていても補助的な仕事で低賃金、結婚すれば退職を迫られる“職場の花”でしかなかったのです。したがって、ほとんどの女性は自立できる経済力がなく、結婚が将来の生活を保障する唯一の道といってもよい状態でした。
そこでこの時期の女性解放の運動は、そうした従属的な地位からの脱却を目指し、従来のような法的権利の獲得や、〈主婦〉の立場での経済的権利の拡大ではなく、実質的な平等化を求めるようになります。アメリカに始まった「ウーマンリブ」運動です。日本では「中ピ連」の直接行動ばかりがマスコミを賑せましたが、もっと広範な形で、従属的な文化の拒否という文化運動の面も持つことになりました。たとえば、ブラジャーをしないという人たちもありました。今だったらそれはよりセクシーに見せるためと思われてしまうかもしれませんが、当時、それが運動になったのは、不自然な手段を使って美しく見せることは男に対する媚びと考え、それを拒否したのです。そうすると当然、飾ることはすべてそういう意味を持ってきますから、できるだけ飾らない、ジーパンとTシャツといった日常的な服装をしようとします。そしてそれは、フォークソングが大衆化していったように、普通の女性たちにも急速に広がっていきました。その流れの中で、化粧もやめようと考える人たちが増えてきました。ですから、化粧しないという人たちは結構多かったのではないでしょうか。少なくともブラジャーをやめた人よりは多かったと思います。
真理さんは女性解放運動の闘士であったわけではありません。そういう意味ではごく普通の女性であったと思います。しかしそういう普通の女性でも、化粧しないことが自分らしい自然なあり方、と考えた、いわば時代の空気のようなものがあったと思うのです。
型にはめられた生き方ではなく、自分らしく自由に生きたい、これこそ、さまざまな運動のかたちをとりながら、この時代の若者たちが追い求めたテーマだったと思います。そして、真理さんもまた、痛切にそういう願いを持っていたと思います。デビュー以来、徹底的に管理された生活を送ってきた真理さんが、はっきりとそういう願いを公の場で発言し始めたのがちょうどこの頃でした。はじめて仕事を離れて行った3月のパリ旅行、「天地真理」でなくていい時間を過ごした経験がそういう転換をもたらしたのかもしれません。「無化粧」もそういう意志の表れだったと思います。ある意味で、ここでのさりげない「無化粧」という発言は、真理さんの“人間宣言”だったと言ってもよいのではないでしょうか。
しかし、実際にはそれはかなり勇気のいることだったはずです。何といっても人気商売ですから、そのことの影響を周りのスタッフは心配したでしょう。真理さんの無化粧を「ああ、いいね」とあっさり認めてくれたのでしょうか。具体的なやり取りがどうであったかはわかりません。しかし、ワタナベプロとの関係が次第にきしみ始めたのはこの頃ではないかと私は考えています。そのことに当時どれだけの人が気づいていたでしょうか。
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