『風立ちぬ』
追加(9/20FMしばた)あります
宮崎駿の新作映画『風立ちぬ』を見てきました。
宮崎アニメとしては子どもの数がやや少なく、逆に私と同年代の人たちも多く来ていました。
いい映画でした。心が豊かに満たされた感じがしました。
とはいえ『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』のような最後の爽快感があったわけではありません。『となりのトトロ』のようなほのぼのとした楽しさでもありません。むしろ、虚しさが残ります。それなのに心にしっとりと浸されたような感覚がありました。
画面は本当に見事です。相変わらずの精密な描写。雑草の葉にあいた虫食いの穴までがしっかりと描かれていました。
そしておなじみの飛行感覚の素晴らしさ。私が宮崎アニメを見る楽しみはこの飛行描写なのです。まさに「天馬空をゆく」がごとき自由さ、それは人間の精神の自由そのもののようでもあります。
実は天地真理さんのうたにもこういう飛行感覚があるのです。私が最初に気づいたのは「あの素晴らしい愛をもう一度」でした。「広い荒野に」と歌い出した時、すでに上昇気流に乗って空中に軽々と舞い上がったような感覚があります。そして「風が流れても」と言うところを真理さんがどんな風に歌っているか、ぜひ聴いてみてほしいと思います。この一言で聴く者も一緒に空中を自由に飛行するのです。
ただ宮崎アニメの飛行感覚と天地真理さんのうたの飛行感覚は少し違います。宮崎アニメの場合はあくまで爽快で曇りがありません。天地真理さんの場合は自由に浮遊する解放感と共に果てしない青空の中にたった一人漂う孤独感のようなそこはかとない寂寥感が伴うのです。
(しかしこの映画全体を通して見た時には、むしろこの寂寥感が漂っているのを感じます。)
内容は一言では言いにくいですね。スカッと説明できるものではないです。むしろそれがこの映画の価値なのではないでしょうか。人生はすっきり割り切れるものではないからです。
時代は戦争へと向かっていく暗い時代です。しかしそれは詳細には描かれていません。しかし軽井沢のホテルで知り合ったドイツ人(ゾルゲの影?)や二郎自身が特高に追われるエピソードがそれを感じさせます。そしてそれ以上に二郎と菜穂子の切羽詰まったような愛に当時の青年たちの心情が映し出されているように思えました。
結局この映画は時代の青春を描いたものだと思います。いつの時代にも青年は夢を追うのです。そして愛を求めるのです。二郎もまた、自分が生きなければならない現実の中で、ひたむきに夢を追い、ひとを愛し、まっすぐに生きたのです。しかしその結果は無残なものでした。
ゼロ戦の設計者を描きながら、無敵と言われた戦闘場面は全く出てきません。関東大震災はリアルに描いていますが、戦争の場面は皆無です。ただ焦土と化した街と、焼け焦げた飛行機の積み重なった残骸が描かれるのみです。
どうしてでしょうか。おそらくアニメで描くと戦闘場面があまりにカッコよくなってしまうからではないでしょうか。「ナウシカ」や「ラピュタ」でも戦闘シーンはあるのですが、あくまでフィクションの世界です。誰もそれを現実だとは思いません。ところが「風立ちぬ」で戦闘場面を描けば実際にあった戦争の場面になってしまい、戦争を美化してしまうと考えたのではないでしょうか。
しかし、それはともかく、二郎の「夢」の結末は、この象徴的場面と「一機も帰って来なかった」という二郎の言葉で十分なのです。
「自分がやろうとしたのはこんなことではなかった」という思いで次の一歩を踏み出せず佇立する二郎に勇気を与えたのは菜穂子の「あなた 生きて!」という声でした。そしてそれが最後の荒井由実「ひこうき雲」へつながっていくのですね、
私はユーミンについては詳しくありませんが、この曲は若くして亡くなった少女を歌った曲と聞いています。他人から見れば「可哀想な人生」でも本人にとっては懸命に生きたかけがえのない人生だったということを歌っていると私は理解しています。
私がこの映画を見た後、宮崎監督の引退が報じられ記者会見が行われました。そのなかでロバート・ウェストールというイギリスの児童文学作家について「繰り返し繰り返しこの世は生きるに値するんだと言い伝え、本当かなと思いつつ死んでいったんじゃないか」と評価し「それを僕も受け継いでいる」と語っていました。
「一機も帰って来なかった」で終わっていれば虚しい思いだけが残ったかもしれません。そこに菜穂子の呼びかけと荒井由実の「ひこうき雲」が続くことで「この世は生きるに値する」という思いを持って終わることができたのだと思います。
ところで「ひこうき雲」といえば天地真理さんにも同名の曲があります(小谷夏=久世光彦作詞 吉川忠英作曲)。私のハンドルネームもそこからとらせてもらいました。おそらく宮崎監督はそれを知らないと思いますが、もし天地真理さんの「ひこうき雲」をそこに使ったらどうでしょうか。「この世は生きるに値する」に「本当かな」というニュアンスがついてくるのではないでしょうか。
私はこの映画でこの最後の場面、菜穂子の呼びかけは唐突で不自然な感じがしていました。無理やり前向きのラストにもっていってしまったような気がしたのです。宮崎監督の意図からすればその後にはやはり荒井由実「ひこうき雲」がふさわしいのでしょうが、菜穂子の呼びかけがもう少し違った形で、そのあとに天地真理「ひこうき雲」が流れたとすれば、どうでしょうか。もちろん歌詞のシチュエーションはこの映画のシチュエーションと全く違うので実際には無理なのですが、曲想と言う意味では、夢も愛する人も失った二郎の空漠とした心情を表現できたのではないかと私は思うのですが・・・。
<追加>
9月20日、FMしばたの「おはようしばた769」でクミさんのリクエストで『誰もいない海』がかかりました。
『誰もいない海』はこの季節にピッタリの曲ですね。そして天地真理さんのうたは本当に素晴らしい。空漠とした寂しさを湛えながら暗く沈ます暖かな光がそっと包みこんでくれます。
動画をつくりながら感じたのですが、この曲も、歌詞の内容はともかく曲想では『風立ちぬ』の最後に使ってもいいのではないでしょうか。
[広告] VPS
※リクエスト情報
FMしばたはhttp://www.agatt769.co.jp/index.htmlから。
NHKFM「ミュージックプラザ」(月曜)10月7日は「秋のリクエストスペシャル」です。他の日や特集に関係のないリクエストも可能です。
リクエストを出す時、「天地真理特集をお願いします」という要望を書き添えましょう。
FM軽井沢「天地真理ミュージックコレクション」へは天地真理オフィシャルウェブサイトの「FM放送」へ。
アーカイブ(過去記事)へ 「空いっぱいの幸せ」へ
コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。
宮崎駿の新作映画『風立ちぬ』を見てきました。
宮崎アニメとしては子どもの数がやや少なく、逆に私と同年代の人たちも多く来ていました。
いい映画でした。心が豊かに満たされた感じがしました。
とはいえ『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』のような最後の爽快感があったわけではありません。『となりのトトロ』のようなほのぼのとした楽しさでもありません。むしろ、虚しさが残ります。それなのに心にしっとりと浸されたような感覚がありました。
画面は本当に見事です。相変わらずの精密な描写。雑草の葉にあいた虫食いの穴までがしっかりと描かれていました。
そしておなじみの飛行感覚の素晴らしさ。私が宮崎アニメを見る楽しみはこの飛行描写なのです。まさに「天馬空をゆく」がごとき自由さ、それは人間の精神の自由そのもののようでもあります。
実は天地真理さんのうたにもこういう飛行感覚があるのです。私が最初に気づいたのは「あの素晴らしい愛をもう一度」でした。「広い荒野に」と歌い出した時、すでに上昇気流に乗って空中に軽々と舞い上がったような感覚があります。そして「風が流れても」と言うところを真理さんがどんな風に歌っているか、ぜひ聴いてみてほしいと思います。この一言で聴く者も一緒に空中を自由に飛行するのです。
ただ宮崎アニメの飛行感覚と天地真理さんのうたの飛行感覚は少し違います。宮崎アニメの場合はあくまで爽快で曇りがありません。天地真理さんの場合は自由に浮遊する解放感と共に果てしない青空の中にたった一人漂う孤独感のようなそこはかとない寂寥感が伴うのです。
(しかしこの映画全体を通して見た時には、むしろこの寂寥感が漂っているのを感じます。)
内容は一言では言いにくいですね。スカッと説明できるものではないです。むしろそれがこの映画の価値なのではないでしょうか。人生はすっきり割り切れるものではないからです。
時代は戦争へと向かっていく暗い時代です。しかしそれは詳細には描かれていません。しかし軽井沢のホテルで知り合ったドイツ人(ゾルゲの影?)や二郎自身が特高に追われるエピソードがそれを感じさせます。そしてそれ以上に二郎と菜穂子の切羽詰まったような愛に当時の青年たちの心情が映し出されているように思えました。
結局この映画は時代の青春を描いたものだと思います。いつの時代にも青年は夢を追うのです。そして愛を求めるのです。二郎もまた、自分が生きなければならない現実の中で、ひたむきに夢を追い、ひとを愛し、まっすぐに生きたのです。しかしその結果は無残なものでした。
ゼロ戦の設計者を描きながら、無敵と言われた戦闘場面は全く出てきません。関東大震災はリアルに描いていますが、戦争の場面は皆無です。ただ焦土と化した街と、焼け焦げた飛行機の積み重なった残骸が描かれるのみです。
どうしてでしょうか。おそらくアニメで描くと戦闘場面があまりにカッコよくなってしまうからではないでしょうか。「ナウシカ」や「ラピュタ」でも戦闘シーンはあるのですが、あくまでフィクションの世界です。誰もそれを現実だとは思いません。ところが「風立ちぬ」で戦闘場面を描けば実際にあった戦争の場面になってしまい、戦争を美化してしまうと考えたのではないでしょうか。
しかし、それはともかく、二郎の「夢」の結末は、この象徴的場面と「一機も帰って来なかった」という二郎の言葉で十分なのです。
「自分がやろうとしたのはこんなことではなかった」という思いで次の一歩を踏み出せず佇立する二郎に勇気を与えたのは菜穂子の「あなた 生きて!」という声でした。そしてそれが最後の荒井由実「ひこうき雲」へつながっていくのですね、
私はユーミンについては詳しくありませんが、この曲は若くして亡くなった少女を歌った曲と聞いています。他人から見れば「可哀想な人生」でも本人にとっては懸命に生きたかけがえのない人生だったということを歌っていると私は理解しています。
私がこの映画を見た後、宮崎監督の引退が報じられ記者会見が行われました。そのなかでロバート・ウェストールというイギリスの児童文学作家について「繰り返し繰り返しこの世は生きるに値するんだと言い伝え、本当かなと思いつつ死んでいったんじゃないか」と評価し「それを僕も受け継いでいる」と語っていました。
「一機も帰って来なかった」で終わっていれば虚しい思いだけが残ったかもしれません。そこに菜穂子の呼びかけと荒井由実の「ひこうき雲」が続くことで「この世は生きるに値する」という思いを持って終わることができたのだと思います。
ところで「ひこうき雲」といえば天地真理さんにも同名の曲があります(小谷夏=久世光彦作詞 吉川忠英作曲)。私のハンドルネームもそこからとらせてもらいました。おそらく宮崎監督はそれを知らないと思いますが、もし天地真理さんの「ひこうき雲」をそこに使ったらどうでしょうか。「この世は生きるに値する」に「本当かな」というニュアンスがついてくるのではないでしょうか。
私はこの映画でこの最後の場面、菜穂子の呼びかけは唐突で不自然な感じがしていました。無理やり前向きのラストにもっていってしまったような気がしたのです。宮崎監督の意図からすればその後にはやはり荒井由実「ひこうき雲」がふさわしいのでしょうが、菜穂子の呼びかけがもう少し違った形で、そのあとに天地真理「ひこうき雲」が流れたとすれば、どうでしょうか。もちろん歌詞のシチュエーションはこの映画のシチュエーションと全く違うので実際には無理なのですが、曲想と言う意味では、夢も愛する人も失った二郎の空漠とした心情を表現できたのではないかと私は思うのですが・・・。
<追加>
9月20日、FMしばたの「おはようしばた769」でクミさんのリクエストで『誰もいない海』がかかりました。
『誰もいない海』はこの季節にピッタリの曲ですね。そして天地真理さんのうたは本当に素晴らしい。空漠とした寂しさを湛えながら暗く沈ます暖かな光がそっと包みこんでくれます。
動画をつくりながら感じたのですが、この曲も、歌詞の内容はともかく曲想では『風立ちぬ』の最後に使ってもいいのではないでしょうか。
[広告] VPS
※リクエスト情報
FMしばたはhttp://www.agatt769.co.jp/index.htmlから。
NHKFM「ミュージックプラザ」(月曜)10月7日は「秋のリクエストスペシャル」です。他の日や特集に関係のないリクエストも可能です。
リクエストを出す時、「天地真理特集をお願いします」という要望を書き添えましょう。
FM軽井沢「天地真理ミュージックコレクション」へは天地真理オフィシャルウェブサイトの「FM放送」へ。
アーカイブ(過去記事)へ 「空いっぱいの幸せ」へ
コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。