歌は〈美〉です
天地真理ファンクラブのオフィシャルサイトの会員専用ページでは真理さんの肉声が聴ける「ファンクラブ通信」というものがあります。最近vol4が配信されましたので聴いてみました。今回は1月に行われた「酒井政利のJポップのあゆみ」に先立って収録された資料音源ということでした。本番での発言と同じことも多いので、おそらく酒井さんとの対話に向けて内容を整理する意味があったのではないかと思います。その中で真理さんは〈歌〉についてこう言っていました。(ファンクラブ会員のみの限定公開なので差し支えない程度に引用します)
「歌は美です。あとは心。きたないものが
きれいになる。そして愛です」
これは真理さん自身の歌の本質を見事に述べていると思います。
モーツァルトは「音楽は常に人を楽しませるものでなければならない」と言っていましたが、真理さんにとって歌は美しいものでなければならないのです。真理さんのうたを現実感がないなどと評する人がいますが、現実を写すのが音楽ではありません。音楽は音楽自体の命がある。真理さんはそれを「きたないものがきれいになる」と表現しているのです。
たとえば、前にも取り上げたことのある「サルビアの花」について、私は本編「空いっぱいの幸せ」の各曲寸評でこう書いています。
この曲は「もとまろ」はじめ、たくさんの人が歌っている。「もとまろ」は悲劇性を持ちながらもフォークのシンプルさ、清潔感をもっている名唱だ。しかし作曲者の早川義夫はかなり違う歌い方をしているし、他の歌手もそれぞれ特徴がある。しかし、そういうかなりの幅がありながらも、(井上陽水を除けば)いずれも自分がストーリーの主人公となって〈哀しみ〉を歌っているという点では共通している。ところがこれらのうたを聴いた後、天地真理を聴くと、まったく違うのだ。彼女は「ぼく」にはならないし、そこに感情移入して泣いたりわめいたりはしない。彼女はひたすら音楽を美しく歌う。だから彼女のうたを聴いた時、まず心をとらえられるのはそのやさしさ、あたたかさなのだ。そしてそこに身を任せていくといつのまにか自然な〈哀しみ〉に浸されている。これが〈天地真理のうた〉なのだ。
今回、以前の記事になかった何人もの歌手(本田路津子、芹洋子、チェリッシュ等)も含めて改めて聴いてみましたが、天地真理さんの「サルビアの花」の魅力は圧倒的でした。他の歌手がどこかで感情を強く出して芝居じみてくるのに対し、真理さんの造形はまったく破綻がなく過度の感情を表に出すことはありません。彼女はストーリーを演じるのではなく、音楽の自由な展開に沿って美しく歌います。表面は明るいくらいにあたたかくやさしいのに、内には燃えるような生命力があり、一つ一つの言葉のデリケートだが豊かな表情を通して聴く者の心を揺さぶる。その表面の美しさを熱い心が支え、悩み苦しむ者にあたたかく寄り添う(愛)。
この曲をこんな風に歌った人は誰もいません。まさしく真理さん以外誰も歌えなかったうたです。
そして、今回の「ファンクラブ通信」で真理さん自身がこうしたうたのイメージをはっきりと持っていたことをあらためて知ることができました。
真理さんは当時の歌謡曲の世界で「うまい」とされた大げさにデフォルメされたり深刻で悲しげな歌いかたとは別の独自のうたの世界を創り出していったのです。
※この記事は真さんのブログ「Music Essays ++ by Shin」からヒントをいただきました。
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「歌は美です。あとは心。きたないものが
きれいになる。そして愛です」
これは真理さん自身の歌の本質を見事に述べていると思います。
モーツァルトは「音楽は常に人を楽しませるものでなければならない」と言っていましたが、真理さんにとって歌は美しいものでなければならないのです。真理さんのうたを現実感がないなどと評する人がいますが、現実を写すのが音楽ではありません。音楽は音楽自体の命がある。真理さんはそれを「きたないものがきれいになる」と表現しているのです。
たとえば、前にも取り上げたことのある「サルビアの花」について、私は本編「空いっぱいの幸せ」の各曲寸評でこう書いています。
この曲は「もとまろ」はじめ、たくさんの人が歌っている。「もとまろ」は悲劇性を持ちながらもフォークのシンプルさ、清潔感をもっている名唱だ。しかし作曲者の早川義夫はかなり違う歌い方をしているし、他の歌手もそれぞれ特徴がある。しかし、そういうかなりの幅がありながらも、(井上陽水を除けば)いずれも自分がストーリーの主人公となって〈哀しみ〉を歌っているという点では共通している。ところがこれらのうたを聴いた後、天地真理を聴くと、まったく違うのだ。彼女は「ぼく」にはならないし、そこに感情移入して泣いたりわめいたりはしない。彼女はひたすら音楽を美しく歌う。だから彼女のうたを聴いた時、まず心をとらえられるのはそのやさしさ、あたたかさなのだ。そしてそこに身を任せていくといつのまにか自然な〈哀しみ〉に浸されている。これが〈天地真理のうた〉なのだ。
今回、以前の記事になかった何人もの歌手(本田路津子、芹洋子、チェリッシュ等)も含めて改めて聴いてみましたが、天地真理さんの「サルビアの花」の魅力は圧倒的でした。他の歌手がどこかで感情を強く出して芝居じみてくるのに対し、真理さんの造形はまったく破綻がなく過度の感情を表に出すことはありません。彼女はストーリーを演じるのではなく、音楽の自由な展開に沿って美しく歌います。表面は明るいくらいにあたたかくやさしいのに、内には燃えるような生命力があり、一つ一つの言葉のデリケートだが豊かな表情を通して聴く者の心を揺さぶる。その表面の美しさを熱い心が支え、悩み苦しむ者にあたたかく寄り添う(愛)。
この曲をこんな風に歌った人は誰もいません。まさしく真理さん以外誰も歌えなかったうたです。
そして、今回の「ファンクラブ通信」で真理さん自身がこうしたうたのイメージをはっきりと持っていたことをあらためて知ることができました。
真理さんは当時の歌謡曲の世界で「うまい」とされた大げさにデフォルメされたり深刻で悲しげな歌いかたとは別の独自のうたの世界を創り出していったのです。
※この記事は真さんのブログ「Music Essays ++ by Shin」からヒントをいただきました。
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