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<うた>の聴き方

前々回の記事で、最後に「続きはボチボチと」と書きましたが、ボチボチどころか三ヶ月も経ってしまいました。以前は二週間に一回は更新するということを私自身の原則にしていましたから、期限が近づくと他のことを放り出して取り組んだものですが、不定期にしようと決めたらずるずると先送りしてしまうようになりました。やはり自分に一定の負荷を掛けるということは大事ですね。とはいっても、今の私には厳しいので、<できるだけ>という逃げ道付きで頑張ってみようと思います。

さて前々回の記事でホームページ『空いっぱいの幸せ』「アルバム別各曲寸評」のブログ版新バージョンを予告しましたが、それを始める前にやはりホームページの「ちいさな恋~天地真理の聴き方」で述べたことをあらためて紹介しておきたいと思います。以下がその全文です。私の寸評を読む際に念頭に置いていただければと思います。

 歌の聴き方は人によりさまざまです。そこからその評価についてもさまざまな違いが生まれます。そこではじめに、私自身の歌の聴き方を説明しておきたいと思います。同時に、天地真理についての文章で私が意識的に使い分けていることばについても説明しておきます。
 ある歌について述べるときに、歌詞の意味やストーリーで歌を説明しようとする人がいます。むしろそういう人が多いかもしれません。たしかに歌詞は"ことば"なのでことばで説明しやすいのです。しかし、私は歌詞の説明で歌を説明しようとは思いません。「ことば」としての歌詞だけでは、「曲」(音楽)を伴った歌そのものを表すものではないからです。同じことばでもそれがどのような曲で歌われるかによってその意味も異なってきます。明るいことばでも悲しいメロディーで歌われれば、そこに複雑な心理が表現されるでしょう。それに加えてその歌が歌手によってどのように歌われる(歌唱)かによって、更に複雑な心理が表現されることになるでしょう。
 たとえばこのページのタイトルである『ちいさな恋』の歌詞などまったく断片的で、はっきりしたストーリーは無く、「たまに会えない日もあるけれど、それでもわたしは待っている」というところなどまったく散文的だし、「ちょっとこわいの恋かしら、赤い夕陽が今沈む」というところはどういう結びつきなのかすぐにはわかりません。しかし彼女のうたで聴くと、「それでもわたしは」というところのメリハリの利いた歌い方で心のときめきがくっきりと現れてくるのです。「ちょっとこわいの」というところも浜口庫之助のチャーミングなメロディーが彼女のみずみずしい声とためらうような歌い方で歌われることで、大人の世界へ踏み出す不安とあこがれを見事に表現しています。
 この魅力は「ことば」としての歌詞をいくら分析しても出ては来ないのです。そもそも安井かずみによるこの歌詞も「天地真理によって歌われる」ことを前提に書かれており純粋な「詩」として書かれているわけではないのです。「断片的」であるのも実は天地真理のうたの特質を的確につかんだ歌詞のあり方なのです。
 このように歌は詞・曲・歌唱が一体となることで単独では表せない豊かな内容を表現しているのです。このサイトの各ページで私が<うた>と表現しているのはそのような詞・曲・歌唱が一体となった歌の全体像という意味です。ですからこのサイトではできる限り<うた>としてそれぞれの歌について述べようとしてみました。もちろんその歌の魅力を述べようとするとき、歌詞が相対的に大きな意味をもっていたり、曲(音楽)がそうであったりします。もちろんここでは天地真理の歌唱が中心であるのは当然ですが、いずれにしてもそれらが一体となった<うた>を私の耳がどう聴き、そこから私が何を感じ取ったのか、それをできるだけ素直に具体的に述べようとしたつもりです。

少し付け加えると、<うた>の評価、解説として、その歌や歌手を巡るエピソードや、歌詞から連想される物語など、周辺的事柄を書き綴って<うた>の評価と勘違いしていることがよくあります。あるいは音楽のいろいろのジャンルに分類したり、○○の影響があるなどと”専門的”な分析をしているものもあります。しかし私にはそんなことはどうでも良いことで、私がしようと思ったのは、一つ一つの<うた>自体を語ることでした。そこで私はこの寸評ではまず自分の耳を研ぎ澄まして天地真理さんの<うた>に集中しました。そして自分の耳で聴き取った<うた>から自分が感じたことを可能な限り具体的に言葉で表そうとしました。予断を持たず、虚心に耳を傾け、自分自身が感じたことを素のままに表そうと心がけました。ただ、言葉で表すという部分については、私には文学的才能はなくボキャブラリーが乏しいので、十分に的確な表現ができたか自信がありません。それでも安易な常套句はできる限り避けるようにしました。たとえば「歌唱力」という言葉は一度も使っていません。お気づきの方もおられたかもしれませんが、この寸評だけでなく、ホームページでもブログでも私は一度も歌唱力という言葉を使ったことはないのです。「・・・力」という言葉は本来は単一の尺度の上で比較する言葉ですね。たとえば体力とか学力とかは定義を明確にすれば測って比較することができます。しかし<うた>はそのように測ることができるでしょうか。<うた>の価値はその<質>にあって<量>ではありません。「この歌は10分もかかるから価値が高い」などと言うことはないのです。では歌唱力という言葉はどのように使われるでしょう。「あの人は歌唱力がある」といいますが、何を基準にそう言っているのでしょう。結局それは「自分がいいと思う」以上の意味はありません。つまり主観的な価値判断をあたかも客観的であるかのように権威づける言葉だと私には思えます。<うた>の価値は、何がどのように表現され、聴くものにどのような影響を与えたかで判断されるべきものです。それが<質>の意味です。ですから<うた>の評価とはその<うた>の特質を明らかにすることなのです。この寸評もそのように読んでいただければと思います。

次回から本論に入る予定です。もう少し更新の間隔は短くなると思いますが、自信はありません。気長にお待ちください。


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