「あの年この歌 1971年」 (3)
「あの歌この年 1971年」の3回目です。前回私は「意欲はあったが全体としてはきまりきったイメージで安易につくられていた」と書きました、その一つの例として小柳さんの話をあげたのですが、もう少しあげたいと思います。
この番組がステレオタイプだというのは番組の副題でも言えます。「ティーンアイドル花盛り」というのですが、「ティーンアイドル」に該当するのは実は南さんだけです。真理さんはデビュー1か月後には20歳になってしまいましたし(当初、渡辺プロは1歳若く公表していましたが)、小柳さんは19歳でしたがあまり「ティーンアイドル」という印象ではありませんでした。「ティーンアイドル」にぴったりなのは「17歳」の南さんや麻丘さん、アグネス・チャンさん、そして「中3トリオ」などでしょう。真理さん、小柳さんは年齢的には大学生に当たるとすると、南さんらは高校生、そして「中3トリオ」は中学生といった間隔です。なのに新3人娘を「ティーンアイドル」にしてしまったのは、その後のアイドルの急速な低年齢化による「ティーンアイドル花盛り」に引きずられたのでしょう。つまり後からできたアイドルのイメージ(アイドル=10代という先入観)を検証もなく元祖に当てはめてしまったのです。
次に、3人についてそれぞれ、南沙織さんには<元祖ティーンアイドル>、 小柳ルミ子さんには<ディスカバージャパンの地方ブーム>、真理さんには<テレビから生まれた白雪姫>という「キーワード」で紹介していますが、これも的外れですね。南さん、小柳さんの場合もそうですがここでは真理さんに限るとにして、<テレビから生まれた白雪姫>って何のことでしょう?映像を見ていくと「テレビから生まれた」ということの根拠としては「『時間ですよ』の知名度をベースに人気者となった」「さらなる人気を得ることになったのは子供向けの人気番組『真理ちゃんシリーズ』」あたりがそれに当たるのかと思いますが、当時大学生で世の中の平均的な感覚をそれなりに知っていた(と思う)私の記憶では「時間ですよ」の知名度と言っても“知る人ぞ知る”程度だったのではないでしょうか。また「真理ちゃんシリーズ」はすでに圧倒的な人気が広がっていたから企画されたもので、それによって人気が加速されたとは(子どもたちには多少はあったでしょうが)言えないのではないでしょうか。いずれも「テレビから生まれた」ということを立証する根拠にはなっていないと思います。ただ<テレビから生まれたアイドル>ということは真理さんについて当時からよく言われてきたことで、おそらく当時をリアルには知らない番組制作者がそうした言葉の断片をつなぎ合わせて考えたのではないでしょうか。しかし当時真理さんが<テレビから生まれたアイドル>といわれたのは視覚的要素が人気の要因だと思われていたからです。真理さんの人気をカラーテレビの普及と結びつけたりするのも同じ理由ですね。今でこそ真理さんの<うた>の素晴らしさが(以前よりは)広く知られるようになってきましたが、当時は
“ファン”でさえ真理さんの魅力を<うた>ではなく視覚的要素で感じていた人が多かったのではないでしょうか。私は初めから<うた>こそ真理さんの魅力と思っていましたが、当然ながら視覚的にも素晴らしい魅力を持った人だと思っていました。そして真理さんの空前の人気がそうした視覚的要素に支えられていたことも事実でしょう。その意味では<テレビから生まれたアイドル>という分析は(<うた>を無視している点で)不十分ではあるが間違ってはいないのです。しかし、もし番組制作者がそうした意識をもって<テレビから生まれた>というキーワードを考えたのであれば、視覚的にどのような魅力があったのかを紹介すべきでしょう。それも「可愛い」などという無規定に近いような言葉ではなく、もっと具体的に紹介すべきです。真理さんの視覚的魅力は単なる顔の造形ではなかったと思います。つまりただ美人だということではなく、その表情の豊かさにあったと思うのです。その象徴が<笑顔>でした。真理さんの笑顔は他の人にはない魅力を持っていました。それは、あたたかく、やさしく、すべての人を幸せにするような笑顔でした。ある意味で生々しさのない普遍性を持った笑顔で、だからこそあれほど多くの人を魅了したのだと私は思っています。しかしこの番組では、彼女の視覚的要素の何が人気に結びついたか掘り下げようとしていませんでした。
真理さんの魅力そのものについて語っていたのは富沢一誠氏だけです。しかしそれは「茶の間の真理ちゃんと言う感じ」とか「3人の中で一番普通」という評論家としてはあまりにお粗末な内容でした。「茶の間の真理ちゃん」というのはすぐ身近にいそうな親近感と言う意味なのでしょうが、富沢氏は南さんについても「学校に行ったら自分の友達にたくさんいそうな」と言っていて親近感と言う意味なら同じだと思うのですが2人の違いはどこにあるのでしょうか。また「普通」という言葉は人によっていろいろの意味になるでしょうし、どういう意味でそう言うのか、どうしてそう言えるのか、さっぱりわかりません。短い時間ではそこまで言えないということならもっと的確な言葉を選ぶべきです。富沢氏は「(天地真理が)人気的にはやっぱり(新三人娘の中で)一番あったのかなあという、僕の印象はそういう感じですよね」とも語っているのですが、真理さんの人気が一番であったのは「僕の印象」ではなく客観的事実です。このように「事実」さえきちんと押さえず「印象」ですりかえてしまうというのは富沢氏だけでなく番組そのものの性格です。
繰り返し言いますが、この番組はむしろ良質のものだと思います。それでも内容的にはきちんと検証が行われず、掘り下げも足りず、定番の評価を繰り返すことで終っていたというのが私の印象です。テレビでも雑誌でも、そこを超える水準のものを期待したいものです。
アーカイブ(過去記事)へ
ホームページ「空いっぱいの幸せ」へ
コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。
この番組がステレオタイプだというのは番組の副題でも言えます。「ティーンアイドル花盛り」というのですが、「ティーンアイドル」に該当するのは実は南さんだけです。真理さんはデビュー1か月後には20歳になってしまいましたし(当初、渡辺プロは1歳若く公表していましたが)、小柳さんは19歳でしたがあまり「ティーンアイドル」という印象ではありませんでした。「ティーンアイドル」にぴったりなのは「17歳」の南さんや麻丘さん、アグネス・チャンさん、そして「中3トリオ」などでしょう。真理さん、小柳さんは年齢的には大学生に当たるとすると、南さんらは高校生、そして「中3トリオ」は中学生といった間隔です。なのに新3人娘を「ティーンアイドル」にしてしまったのは、その後のアイドルの急速な低年齢化による「ティーンアイドル花盛り」に引きずられたのでしょう。つまり後からできたアイドルのイメージ(アイドル=10代という先入観)を検証もなく元祖に当てはめてしまったのです。
次に、3人についてそれぞれ、南沙織さんには<元祖ティーンアイドル>、 小柳ルミ子さんには<ディスカバージャパンの地方ブーム>、真理さんには<テレビから生まれた白雪姫>という「キーワード」で紹介していますが、これも的外れですね。南さん、小柳さんの場合もそうですがここでは真理さんに限るとにして、<テレビから生まれた白雪姫>って何のことでしょう?映像を見ていくと「テレビから生まれた」ということの根拠としては「『時間ですよ』の知名度をベースに人気者となった」「さらなる人気を得ることになったのは子供向けの人気番組『真理ちゃんシリーズ』」あたりがそれに当たるのかと思いますが、当時大学生で世の中の平均的な感覚をそれなりに知っていた(と思う)私の記憶では「時間ですよ」の知名度と言っても“知る人ぞ知る”程度だったのではないでしょうか。また「真理ちゃんシリーズ」はすでに圧倒的な人気が広がっていたから企画されたもので、それによって人気が加速されたとは(子どもたちには多少はあったでしょうが)言えないのではないでしょうか。いずれも「テレビから生まれた」ということを立証する根拠にはなっていないと思います。ただ<テレビから生まれたアイドル>ということは真理さんについて当時からよく言われてきたことで、おそらく当時をリアルには知らない番組制作者がそうした言葉の断片をつなぎ合わせて考えたのではないでしょうか。しかし当時真理さんが<テレビから生まれたアイドル>といわれたのは視覚的要素が人気の要因だと思われていたからです。真理さんの人気をカラーテレビの普及と結びつけたりするのも同じ理由ですね。今でこそ真理さんの<うた>の素晴らしさが(以前よりは)広く知られるようになってきましたが、当時は
“ファン”でさえ真理さんの魅力を<うた>ではなく視覚的要素で感じていた人が多かったのではないでしょうか。私は初めから<うた>こそ真理さんの魅力と思っていましたが、当然ながら視覚的にも素晴らしい魅力を持った人だと思っていました。そして真理さんの空前の人気がそうした視覚的要素に支えられていたことも事実でしょう。その意味では<テレビから生まれたアイドル>という分析は(<うた>を無視している点で)不十分ではあるが間違ってはいないのです。しかし、もし番組制作者がそうした意識をもって<テレビから生まれた>というキーワードを考えたのであれば、視覚的にどのような魅力があったのかを紹介すべきでしょう。それも「可愛い」などという無規定に近いような言葉ではなく、もっと具体的に紹介すべきです。真理さんの視覚的魅力は単なる顔の造形ではなかったと思います。つまりただ美人だということではなく、その表情の豊かさにあったと思うのです。その象徴が<笑顔>でした。真理さんの笑顔は他の人にはない魅力を持っていました。それは、あたたかく、やさしく、すべての人を幸せにするような笑顔でした。ある意味で生々しさのない普遍性を持った笑顔で、だからこそあれほど多くの人を魅了したのだと私は思っています。しかしこの番組では、彼女の視覚的要素の何が人気に結びついたか掘り下げようとしていませんでした。
真理さんの魅力そのものについて語っていたのは富沢一誠氏だけです。しかしそれは「茶の間の真理ちゃんと言う感じ」とか「3人の中で一番普通」という評論家としてはあまりにお粗末な内容でした。「茶の間の真理ちゃん」というのはすぐ身近にいそうな親近感と言う意味なのでしょうが、富沢氏は南さんについても「学校に行ったら自分の友達にたくさんいそうな」と言っていて親近感と言う意味なら同じだと思うのですが2人の違いはどこにあるのでしょうか。また「普通」という言葉は人によっていろいろの意味になるでしょうし、どういう意味でそう言うのか、どうしてそう言えるのか、さっぱりわかりません。短い時間ではそこまで言えないということならもっと的確な言葉を選ぶべきです。富沢氏は「(天地真理が)人気的にはやっぱり(新三人娘の中で)一番あったのかなあという、僕の印象はそういう感じですよね」とも語っているのですが、真理さんの人気が一番であったのは「僕の印象」ではなく客観的事実です。このように「事実」さえきちんと押さえず「印象」ですりかえてしまうというのは富沢氏だけでなく番組そのものの性格です。
繰り返し言いますが、この番組はむしろ良質のものだと思います。それでも内容的にはきちんと検証が行われず、掘り下げも足りず、定番の評価を繰り返すことで終っていたというのが私の印象です。テレビでも雑誌でも、そこを超える水準のものを期待したいものです。
アーカイブ(過去記事)へ
ホームページ「空いっぱいの幸せ」へ
コメントは掲載までに多少時間がかかることがあります。しばらくお待ちください。