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『氷の福音』④

もう一点触れておきたいと思います。
それは「水色の恋」の“盗作”問題です。

「水色の恋」の作詞・作曲はは田上えり・みどり姉妹となっていました。(この姉妹についてはこのブログの第1回の記事で取り上げました。)
ところが、後にアルゼンチン・タンゴの「ホテル・ヴィクトリア」とよく似ていると言われ出し、版権を持つヤマハ音楽振興会が交渉にあたった結果、現在では「田上えり・Carlos Pesche 作詞 / 田上みどり・Feliciano Ramon Latasa 作曲」という長い表記になっています。なぜこんな変な表記になったのでしょうか?
まずは「ホテル・ヴィクトリア」を聴いてみましょう。

私が聴く限り、確かに似ているところはある。しかしそれはごく一部(「さよならの言葉さえいわなかったの」の部分)でしかないし、曲想そのものが全く別物です。何でこんなことが問題になるのか私には理解できません。
次の曲を聴いてください。(時間のない方は最初のメロディーのところだけでもいいです)

これはモーツァルトが12歳の時に作曲した最初のオペラ「バスティアンとバスティアンヌ」の序曲です。これを聴いて「あれ?」と思った人もいますね。次の曲を聴いてください。(時間のない方は最初のメロディーのところだけでもいいです)

これはベートーヴェンの交響曲第3番いわゆる「英雄」の第1楽章です。この最初のメロディー、「バスティアンとバスティアンヌ」序曲のメロディーとそっくりですね。でも曲想は全く違います。誰もベートーヴェンが“盗作”したとは言いません。当時はCDのようなものはもちろんありませんから、ベートーヴェンが「バスティアンとバスティアンヌ」を知るためにはこのオペラが上演されるか、楽譜を手に入れるしかありません。でも「バスティアンとバスティアンヌ」が上演される機会はほとんどなかったのではないかと思いますし、大傑作がいくらでもあるのに12歳の時のオペラの楽譜をベートーヴェンがわざわざ求めたとは思えません。学説は知りませんが、たぶんベートーヴェンはまったくオリジナルにこのメロディーを生み出したのだと思います。当時は著作権という概念自体ありませんでしたが、もし今だったら「似ている」というだけでベートーヴェンは“盗作”だと言われるのでしょうか?変な話ですね。

“盗作”かどうかは結局、本人にその意識があったかどうかだと私は思います。ですから田上みどりさんがどう言っているのか、それがカギになりますが、これまで聴いたことはありません。連名の形になっているということは認めたということでしょうか?それとも(ベートーヴェンの例でもわかるように)“盗作”ではないと証明するのが難しいので、ヤマハ音楽振興会が(もしかしたら渡辺プロの意向を受けて)早く幕引きをするために妥協したのでしょうか?どちらともわかりませんが、ともかくこれは“利”をめぐる問題ですから必ずしも“真実”であるかどうかはわかりません。

ただ私はどうして作詞まで連名になっているのかわからなかったのですが、shiolaboさんによれば「詞曲一体」という慣行があるということで、詞が「ホテル・ヴィクトリア」の詞に影響されているということを意味するわけではないようです。
ところが、当時の渡辺音楽出版制作部長の著書の中に詞も少女雑誌に投稿された詞が原詞だという記述があるようなのです。詳しくは本書を読んでいただきたいと思いますが、原詞はまだ確認できていないので、どのように「似ている」のかわかりませんし、元渡辺音楽出版制作部長の記述にも疑問なところがいろいろあります。どこまで信頼できるか、判断しにくいところもあります。また私はこのことについても、田上えりさんがどう言っているのか、それがカギだと思っています。

しかしここでこのテーマを取り上げたのは、もし仮にすべて事実だったとしても『水色の恋』の価値が減ずるものではないということははっきりしておきたいと思うからです。
もちろん当然ながら、これらが事実だったとしても真理さんには何の責任もないことです。これは大前提です。
そして本質的にはオリジナリティーとは何かという問題になります。
そして、shiolaboさんの主題もそこにあるのです。
shiolaboさんは「人ははたして≪創造≫をなしうるのであろうか」と問いかけ、「『水色の恋』成立の背景には、幾多の人々による営為の集積があった。およそひとつの≪作品≫が生まれるに当たり、…種々なる個性の多様な配合がひとつの結晶となってもたらされる」と述べています。
私なりの考えで言えば、ピカソの独創的表現も先達たちから徹底的に”盗む”ことから生まれたように、無から有が生じるわけではなく、他者の生み出したものにほんの少しの付け足しをすることが≪創造≫なのです。
仮に「ホテル・ヴィクトリア」のメロディーを使ったのだとしても、それに『小さな私』の詞をつけるということは全く田上姉妹の独創です。そしてそうすることによって曲想自体が劇的に変化し、まったく別の曲のようになったのです。それこそがオリジナリティーなのです。
同じことは詞についても言えます。仮に少女雑誌の投稿詩を借用したとしても、そこにあのメロディーをつけたのはやはり田上姉妹のオリジナリティーなのです。
そして一番肝心なことは曲は歌われなければ<うた>にならないということです。楽譜は記号です。それをどう音として表現するか、そこに究極のオリジナリティーがあるのです。
『水色の恋』は真理さんに歌われてはじめて命をもって輝き始めたのです。

※リクエスト情報
FMしばたhttp://www.agatt769.co.jp/index.htmlから。

NHKFM「ミュージックプラザ」(月曜)7月8日は「坂の昭和歌謡」、22日は「真夏の昭和歌謡」、29日は「旅の昭和歌謡」、8月5日は「瞳の昭和歌謡」です。他の日や特集に関係のないリクエストも可能です。

FM軽井沢「天地真理ミュージックコレクション」へは天地真理オフィシャルウェブサイトの「FM放送」へ。


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『氷の福音』③

すでに述べたように、この書が扱っているテーマはあまりに多く、今の時点でそれらすべてについて触れることはできませんが、ここでは2点ほど触れておきたいと思います。

まず一つは天地真理さんのお父さん斎藤新太郎氏のことです。
新太郎氏については週刊誌に少し記事が出たくらいで、どのような人かあまり知られていませんでした。離婚の原因が女性関係でしたから、どうしても「幼い真理さんを捨てた人」といったイメージで見られてきたように思います。
しかしshiolaboさんはその少ない情報の中の一言に注目して、新太郎氏の軍歴を明らかにしていきます。それによれば、1938年に応召し、最初関東軍に配置されてノモンハンにも従軍、1941年からはビルマ、タイと転戦し、1944年内地に戻り、所沢飛行場で飛行機の整備を担当、原爆投下直後の広島上空を軍医を乗せて飛行したこともあったという。shiolaboさんはそのことから、新太郎氏の戦後の生き方にこの戦争体験が大きな影響を与えていた、と推測するのです。単車を乗り回し、毎晩浴びるように酒を飲み、ケンカもする、そういう何か鬱屈したエネルギーを抱えたような新太郎氏の生き方には、死と隣り合わせの戦場や日本軍の占領地の中で体験し見聞きした人間性を失わせていくような悲惨で残酷な出来事が影を落としていたのではないか、離婚の原因も実はそこにあったのではないかと考えるのです。
この書にもベトナム帰還兵のことが出ていますが、私も実際にベトナム帰還兵の話を直接聴く機会がありました。その人は帰還後、周りの社会にとけ込めず、家族にも受け入れられず自殺未遂もして廃人のようになってしまったのです。幸いボランティア団体の支援を受けて立ち直ることができたのですが、実際の戦場を体験した人はそうした深い傷を抱えているものなのですね。多くの戦友を目の前で失い助けることもできずに「自分だけが生き残ってしまった」という悔恨、殺さなければ殺される状況の中で何人もの人を殺してきたという罪悪感、しかもそういうことを自分の胸に封じ込めて、たとえ家族でも話すことができないという苦悩もあります。
新太郎氏もそのような苦悩を抱え込み、だから浴びるほどの酒で気を紛らすようになり、それでも得られない救いを他の女性に求めてしまったのではないか、とshiolaboさんは推測するのです。
このあたり、わずか一言のヒントからここまでグングン掘り下げていくshiolaboさんの筆致は本当に見事です。
ただ私は、そういう可能性は十分あると思いましたが、それを実際に証明することができるのだろうか、想像が広がりすぎていないかという疑問もありました。
ところがshiolaboさんが探し出し取材した、斎藤家と親しかった人の一言がその疑問をひっくり返してしまいました。それは
 「斉藤さんは恩給を断ったんですよ。一切もらわなかったんです。
  そんなものは受け取れないと・・・」

ということばです。
「そんなものは」と言って恩給を受け取らなかった元兵士がいた、ということが私には衝撃でした。国家によって徴兵され、国家のために生死をかけ戦った、そういう人が恩給をもらうのは当然の権利です。それに実際上、生活は大いに助かるのです。しかし新太郎氏はそれを拒んだのです。なぜか、それはshiolaboさんが解明されている通り「血塗られた金などくそ喰らえ」ということだと思います。戦争での地獄のような体験、それを金銭などと交換はできない、と言うことでしょう。
ほとんどの日本人は戦後、自分自身の戦争責任を不問に付してきました。責任はすべて軍部、軍国主義にある。自分たちは犠牲者で「騙されてきた」のだと。
もちろん本質的な責任が権力者にあることは当然です。しかし、戦勝に酔ってちょうちん行列をしたり、戦争反対の人を「非国民」と呼んでさまざまな嫌がらせをしたり、庶民もまた戦争遂行に自ら協力してきたのも事実です。「騙された」としても「騙された」責任はあったのです。しかしほとんどの日本人はそうした自分に向き合おうとせず、元兵士たちも戦場や占領地での自分の行動、体験を不問にして恩給を当然のこととして受け取ってきたのです。
ところがそれを潔しとせず恩給を拒否した元兵士がここにいたのです。自分自身の戦争体験と向き合い「そんなものは受け取れない」と退けた無名の元兵士がいたのです。日本の庶民の戦争責任の取り方として、これは稀有な事例ではないでしょうか。
「想像しすぎじゃないか」という声もあるかもしれません。しかしそれ以外に、恩給という実利を敢えて拒む理由を私は考えられないのです。
「みんなもらっているんだから、もらっておけばいいじゃないか。そうすれば真理ちゃんの養育費だって出せたのに」と言う声が聴こえてきそうな気もします。しかし、斎藤新太郎氏はそういう器用な生き方はできなかったのではないでしょうか。真理さんもとても不器用な生き方をしてきた人ですが、それはもしかしたら父親譲りであったのかもしれません。

斎藤新太郎氏の人物像が初めてその心の中まで生き生きと描き出されたこの部分は、この書の新発見の中でも白眉であると私は思います。shiolaboさんの調査力、洞察力にあらためて敬意を表したいと思います。(つづく)



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『氷の福音』②

≪追記があります≫

この著作は天地真理さんの評伝ではありません。もちろん新発見の事実も含めてこれまでの真理さんの軌跡について触れています。しかしそこから次々とテーマが膨らみ、仏教の経典や中国の古典、日本の神話、聖書、近代の様々な思想書や文学作品を引用しつつ、宗教や思想、さらに日本の近現代史の様々な問題にまで踏み込んでいきます。

真理さんに直接関係する事実だけでも、私が知らないことがたくさんありました。shiolaboさんが関係者に直接取材してわかったことはもちろん、私が持っていない資料も多数ありました。あるいは、私が持っている資料と同じでありながら、私が気づかなかった意味を引き出しているところもありました。それだけでも読む価値はあると思います。

そしてそれに関連して引用される書物の幅広さ、その幅広い膨大なフィールドの中から、一つのキーワードに関連した部分をピンポイントで引き出してくる蓄積された知識量には本当に驚かされました。
それらは必ずしも真理さんに直接関係したものでない場合も多いですが、私にはそこに引用された古典の数々を読むことそれ自体がわくわくして楽しいものでした。
最近は、私自身も含め「古典」を読むことが少なくなりました。学校の教科書でも「古典」は減ってきているようです。「古典」(「古文」ではない。近代のものでも古典的価値をもつものは「古典」です)は難しくてつまらないものといった先入観が広がっているように思います。しかし、今回(引用なので、まとまった形ではなく断片だが)たくさんの古典的な文章を読んで、あらためて古典は人類の文化的遺産だと思いました。やはりそこには深い≪真理≫があります。たしかに古典の文章はむずかしいです。しかし複雑なことは複雑な言葉でしか表現できないということがあると思います。わかりやすく易しい言葉で表現されることはそれなりのことでしかないということもあるのではないでしょうか。それに「わからない」ことは自分を映す鏡であり「わかる」ためのステップです。「わからない」のは自分の無知ゆえですから、そこから新たな「学び」が始まるのです。その意味でも、この書で見たこともない古典に接し、shiolaboさんの解説に導かれて「学ぶ」よろこびも味わうことができました。私にとってこの書は、次にどんな楽しいものが出てくるかわからないデズニーランドのような世界でした。

そして何より、事実と古典という素材を用いてshiolaboさんが展開している考察は非常に鋭いものがあります。一つ一つを見ていけば私が同意できないこともあります。しかしそういうことも含めて深く考えさせられるものがありました。それを総合的に論じるにはもう1度か2度読み直さないとできそうもありません。ここでは一つだけ触れておきたいと思います。それは2つの ”天地真理 ”です。
shiolaboさんは 天地真理(カッコなし)と≪天地真理≫(カッコつき)の2つの表記を使い分けています。カッコなしの 天地真理 は真理さん自身のことです。カッコつきの≪天地真理≫は文字通り天地(テンチ)の真理(シンリ)ということだと思いますが、読み方は「テンチシンリ」なのか「アマチマリ」なのかわかりません。この書籍の副題は「≪天地真理≫をめぐりたる象徴学的研究」となっていて、私は「天地真理さんをめぐる」ととっていたのですが、後で見るとカッコつきの方だったのですね。最終章のタイトルも≪天地真理万歳≫となっていて≪≫をつけてあります。私がそのことに気がついたのは途中まで読んでからですが、これがこの書を理解するポイントのようです。つまりこの書は、天地真理さんのさまざまな側面の中に現れている世界の真理を論じた書、と言うことではないでしょうか。(つづく)

≪追記≫
6月17日(月)のFMしばた「ごきげんラジオ769」でクミさんとNOZIKAさんのメッセージが読まれました。 

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『氷の福音』①/「時代の肖像」反響/FMしばた

≪追記があります≫

shiolaboさんの労作『氷の福音』はお読みになったでしょうか。
300ページを越える大作ですし、古今東西の書物が縦横に参照されており、中にはかなり難解なものありますから通読するだけでも相当な時間と労力を必要とします。しかし私は夢中で読んでしまいました。
感想をひとことで言うなら「とにかく、おもしろかった」ということになります。「おもしろかった」といっても、もちろん面白おかしいという意味ではありません。実に興味深かった、探究心をそそられた、といった意味です。

shiolaboさんが数年前から、天地真理さんについての著作に取り組んでおられることは存じ上げていました。いろいろの方に取材をしたり文献にあたられて新事実もいくつかつかんでおられるようでした。

その中で私が知ることができたのは「時間ですよ」のオーディションの時の控室の様子を写した写真です。真理さんがデビューのきっかけをつかんだ伝説のオーディションは語られることはあっても写真は見たことがありませんでしたが、2年ほど前、shiolaboさんに教えていただき掲載された本を購入して初めて見ることができました。下の写真です。オーディション本番(面接)の写真は今のところ公開されたものはありませんから、この写真が唯一その様子を知ることができる写真です。それにしても小さな控室ですね。予選があったという話を私は聞いていないので、これが応募者のすべてなのでしょう。「第2の天地真理」を謳って2万人の応募があったという第3シリーズのオーデションと比べるとささやかなものです。この違いこそ「天地真理」登場の衝撃を物語っていますね。
写真を見てみましょう。立っているのは久世さんですね。では真理さんはどこにいるでしょうか?
時間ですよ縮小
これはサムネイルではありません。クリックしても拡大しません。大きな写真で見たい方は『氷の福音』を購入して巻頭写真をご覧ください。しかし元の写真でも真理さんがどこにいるか、すぐにはわからないと思います。そこでその部分をさらに拡大した写真も載っていますからぜひそれをご覧ください。(購入するには塩崎研究所へ)
しかし、すぐにはわからないのは写真の大きさだけが理由ではありません。真理さん自身があまり目立っていないのです。それだけに、この真理さんの中の<華(はな)>を見抜いた森光子さんはやはり炯眼であったと言わざるを得ません。

このように、この写真ひとつとっても大変な“発見”ですから、shiolaboさんが他にどんな新事実をつかんでいるか、私は著書の完成を待ち続けていました。
そして今年一月、とうとう刊行という連絡があり公告もされました。ところがそこで紹介されていた「トピック」を見ると、気になることがいくつかありました。shiolaboさんは真理さんのことなら何でも礼賛するような人ではありません。それだけに真理さんにとってマイナスイメージになるようなこともあるかもしれない。もちろん、ひとりの人をトータルに論じようとすればそれは避けられないことです。ただ私が心配したのは、刊行された書物が独り歩きを始めて、たとえばマスコミの悪意ある報道に使われたりしないか、ということでした。それはこれまで真理さんがそうした悪意ある報道で何度も苦しめられてきたことを知っているだけに考えざるを得なかったのです。そこでそのことについて何回かshiolaboさんとやりとりをしました。その中で丁寧な説明をいただき、次第に不安は解消されていったのですが、それでも一抹の危惧は残っていました。
しかし今、実際に自分で通読して、私の心配はまさに杞憂にすぎなかったとはっきり言えます。
(つづく)

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もう一つ別の話題です。
先日、信越放送「日曜音楽夢工房」の中の「時代の肖像」での天地真理特集について報告しました。それを聴いた方のメッセージが6月2日の放送で読まれましたのでお聴きください。
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この人は元々真理さんファンのようですが、まとめて聴くことで確信が持てたというのですね。メッセージを出す人は限られていますが、一通のメッセージはいわば氷山の一角で、同じ感想を持った人が何倍もその影にいるものです。特集ができてやはりよかったなあ、とあらためて思います。
なお「マリリン・モンローと似ている」と言うことについては私も以前取りあげたことがありますのでご覧ください。

≪追記≫
本日FMしばた「ごきげんラジオ769」でNOZIKAさんのメッセージが読まれ、リクエスト「レイン・ステイション」がかかりました。
FMしばたはサイマルラジオで全国どこからも聴くことができるようになったので「中継」は終了しました。
しかし、パソコンの前でずっと聴いているわけにもいかないので、リクエストの状況が分からなくなりました。
この放送はNOZIKAさんが事前に連絡して下さったので録音できました。皆さんもリクエストを出したら、いつのどの番組か連絡いただければできるだけ対処したいと思います。
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スクリーンコンサート

「天地真理スクリーンコンサート」に行ってきました。
私はこれまでこうしたイベントがあると、決まって冠婚葬祭などが入って都合がつかなかったので、参加するのは今回がはじめてです。

新宿駅で降りるのは久しぶりでしたが、構内がいろいろ複雑になっていてどこへいっていいかわからずウロウロしていました。それに、普段スキズキしたところにすんでいるので、人の多さに圧倒され、正面から群れのように人が流れてくるのを見ると頭がくらくらしてしまいました。完全に“おのぼりさん”状態ですね。

それでも新宿駅で1,2の3ちゃんさん、それから一緒にお住まいのサンフォードさんと無事合流でき、会場へ向かいました。

コンサートの様子については他のブログなどでも掲載されていて、「さくら貝」掲示板にも一部紹介されていますのでそれらをご覧ください。
ここでは詳細な内容は省いて私が感じたことだけ記しておきたいと思います。

コンサートのはじめの頃は少しなじめませんでした。というのはああいう会場でスピーカーで音楽を聴くということに慣れていないせいです。というのはクラシックのコンサートではマイクは使いませんから、演奏している(歌っている)その人自体から音が出てくるのです。ですからその人の動き、表情が音楽と一体となっていて、聴く側もそこに集中できるのです。ところがマイクを使うと歌っている人と違うところから音が出てきますから、私の場合、目と耳がちぐはぐになってしまい、集中できないのです。私が真理さんの歌を初めて生で聴いたのはミュージカル「君よ知るや南の国」でしたが、この時は舞台上の動きがあるだけになおさらなじめなかったのを覚えています。
この日のコンサートも最初はそういう状態で音が拡散しているような感じでしたし、音量も私からすると少し大きすぎるのではないかと思えました。音楽は耳に侵入してくるような音量よりも、自分から耳をすまして聴きにいこうとするような音量の方が集中できるし、繊細なニュアンスも聴き取れるのではないかと思うからです。
というわけで最初は戸惑っていましたが、当時「私は天地真理」コンサ-トを実際に聴いた人もこんな感じで聴いていたんだ、と思いつくと自分の中に聴く枠組みのようなものができたようで、それからは楽しんで聴くことができました。

レコード(CD)を自分で聴くのと少し違った印象の曲もありました。最初の「水色の恋」、ピアノ弾き歌いの「夏を忘れた海」、アンコールの「矢車草」は私としてはこれまで少し不満足なところがあったのですが、今回は大音量の中でそういう部分が目立たなくなったのか、とても自然に聴こえました。逆に「告悔」は意外に元気よく聴こえてしまって真理さんの魂の訴えのような繊細なニュアンスが聴こえにくくなっていたように感じました。そこから考えたのですが、当時会場で聴いたファンの人たちも、この「告悔」から真理さんが抱えていた危機感を聴き取れていなかったのかもしれません。

映像は素晴らしいものでした。これだけ未発表の写真が眠っていたとは信じられません。しかもすべて魅力的なものばかりでした。刻々と変化する真理さんの表情が素晴らしいし、特にうるんだように輝く瞳の美しさは格別でした。もちろんそれは歌とともに見ることでより印象的になっていたのでしょうが。

コンサートの後で記念写真の撮影があり、撮影後真理さんが一人一人と握手をしてくれ、簡単に言葉を交わせる機会がありました。私の順番が来て真理さんと顔を合わせたとき、びっくりしました。そこにはあの写真と同じうるんだように輝く瞳があったからです。この日いただいた色紙のサインも筆跡に力がありバランスも安定していて、確かに体調はとても良くなられたと感じられました。
とはいえ、立ったままで100人近い人たちとひとりひとり会話をしながら握手していくというのは大変なことだったのではないでしょうか。私は順番が早い方で、後にかなりの人がいましたから二言三言の会話で済ませましたが、かなり長く話している人もいて、相当長時間になっていました。お疲れだったのではないかと思いますが、最後まで笑みを絶やすことなくしっかりと目を合わせて会話しておられました。考えてみると、全盛期の頃はこういうことを毎日のようにされていたのではないでしょうか。改めて当時の大変さを思いました。


※リクエスト情報
FMしばたhttp://www.agatt769.co.jp/index.htmlから。
  
NHKFM「ミュージックプラザ」(月曜)6月10日は「時の昭和歌謡」、17日は「雨の昭和歌謡」、24日は「上半期リクエストスペシャル」です。他の日や特集に関係のないリクエストも可能です。

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