本編の「空いっぱいの幸せ」を更新しました。2か月ぶりですが、その前は5カ月ぶりでしたから、まだ早い方と言うことにしておきます。
今回の更新は「若葉のささやき」(各曲寸評)で「明日へのメロディー」を完成したことが主なものです。これで、枚数では真理さんのオリジナルアルバム全14枚の内、7枚が完成しました。残る7枚もすでに何曲かは書き込んであるので、数えてみたところ、あと64曲でした。つまり、すでに過半数は達成と言うことがわかりました。はるか先だと思っていたゴールが見え始めた気がします。
さて、これだけだと寂しいので、もう一つ話題です。
「天地真理ものがたり」で「想い出のグリーングラス」のライブ版を取りあげています。
このライブ版については私も感ずるところがあったので、コメントしようと思ったのですが、書き始めたらコメントと言うには長くなりすぎてしまいました。そこで、こちらに書くことにしました。したがってまず「天地真理ものがたり」のメロンパンさんの文をご覧になり、曲もお聴きになってから、こちらをお読みください。
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メロンパンさんが実にぴったりな表現をされていますが、ここでの真理さんのうたはまさに「喜びに満ちた生命の賛歌」ですね。しかし、原曲のシチュエーションはメロンパンさんの解説にある通り、絶望の中の夢です。
ではどうして真理さんはそれをこんな風に歌うのでしょうか?
ひとつは訳詞のためということが考えられます。山上路夫さんの訳詞は原曲とはまったく違って、都会で道に迷った少女が故郷に帰って温かく迎えられるハッピーエンドになっています。真理さんがライブ盤「天地真理オンステージ」でこの曲を歌っていますが、それはこの訳詞に忠実に歌っているように思えます。そして、それはきれいにまとまってはいるのですが、何か物足りなかったのです。
しかし、このライブ録音はそれとはかなり違っています。真理さんはその詞をも離れて、自由自在に歌っているように思えます。
真理さんは歌詞を「意味」で解釈するより、詩的、あるいは感覚的に受け止める傾向があるのではないでしょうか。あるいは、言葉より音楽の論理に従って歌う傾向があると言ってもいいのかもしれません。音楽の自然な流れに乗っていけばこうなるよ、という歌い方です。
この録音でも、最初のところは「オンステージ」と似たような歌い始めなのですが、「手を振りながら」というところで突然ギアが入ったようにテンポがアップし、何かが乗り移ったようにがらっと表情を変えていきます。まるで<音楽>そのものが<天地真理>という楽器を借りて、自由に展開し始めたような感じなのです。それは、真理さんの側からすれば心の赴くままに音楽に身をゆだねて歌っているということではないでしょうか。
たとえば「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド」でもそうですが、真理さんがこういう音楽の論理に従って歌うとき、言葉(理屈)の論理からは思ってもみないような新鮮な表現を生み出すのです。
いずれにしても、この「想い出のグリーングラス」はよろこびがあふれ息づく、まさに天地真理の世界です。 アーカイブ(過去記事)へ 「空いっぱいの幸せ」INDEXへ
次は、大阪 梅田コマ劇場でのショーの話になります。
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最後に「初めての涙」を「どうぞ」と言っていますが、録音されていませんでした。近いうちに別の録音でお聞きいただけると思いますので、お待ちください。
さて、ここで爆笑を誘っている「まりちゃんズ」というグループは知る人ぞ知るフォークグループですが、Wikipediaから抜粋して紹介します。
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東京都大田区立池上小学校、同大森第四中学校の同級生だった藤岡孝章、尾崎純也、藤巻直哉の3人が「ブスにもブスの生き方がある」で74'フォークコンテストに出場したところ、「歯に衣を着せない」歌詞を評価されてスカウトされた。
1974 年から1976年までの実質2年間しか活動していない。にも関わらず、リリースした曲のほとんどが放送禁止となるなどの武勇伝を持つ異色のバンドである。歌詞の内容が、SMやフェチ、ハードゲイなど今から30年以上も昔の音楽業界では考えられない程きわどく、更にセカンドアルバムではメンバーがビジュアル系メイクでジャケットを撮影するという事実から、時代を先取りし(過ぎ)ていたという評価がある。
1993 年9月15日、「尾崎家の祖母」(おざきんちのばばあ、と読む)が、JFN系のラジオ番組『赤坂泰彦のミリオンナイツ』で紹介されて突如再注目され、シングルCDとして再発された「尾崎家の祖母」は15万枚を超えるヒットとなった。1995年に再びまりちゃんズとしての活動を再開した。2005年11月23日には尾崎抜きで「藤岡藤巻」なるユニットで再デビューする。2008年には「藤岡藤巻と大橋のぞみ」なるユニットでアニメ映画『崖の上のポニョ』(宮崎駿監督)の同名主題歌を歌い、ヒットを飛ばす。
名前の由来はクラスの憧れの人の名からとったという。天地真理のファンだったからという説がよく引かれるが前記から誤りと思われる。
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というわけで、当時、相当“危ない”グループと見られていましたから、真理さんが共演すると言うことで、大爆笑となっているわけです。
Youtubeで彼らの曲を聴くことができますが、たしかに普通は歌えない内容ですね。でもよく聴けば、見かけによらず(?)あたたかい人柄が感じられます。それが一見意外な『崖の上のポニョ』につながるのでしょうね。
さて、それでは彼らをゲストに迎えた梅田コマスタジアムでの『天地真理ショー』(1975.8.7~12)はどうだったのでしょうか。
プログラムは次のようになっていました。

第1部はミュージカルで曲の一部をYoutubeで聴くことができます。第2部がヒットメドレーとなっていて、その第2景がまりちゃんズとの共演のようです。たぶん、「赤ちょうちん」は真理さんも一緒に歌い、他の3曲をまりちゃんズだけで歌ったのだと思います。まりちゃんズの歌としてはお客さんの抵抗感の少ない曲を選んだようですね。
さて、こんな“危ない”グループと共演した真理ちゃん、「大丈夫だったのかな?」と心配している人もいるかもしれませんね。
実は、まりちゃんズがこの公演中、真理ちゃんにインタビューした番組があったんです。お聴きください。(これはYoutubeです)
これを聴いて気がつくのは、当時歌謡曲とフォークには歴然とした壁があったということですね。特にまりちゃんズの方がそれを気にしているように思えます。フォークも数年後にはニューミュージックという形で相互浸透していってしまうのですが、この時点ではフォークの理念のようなものが色濃くあったということでしょう。
一方、真理さんはもともとフォークから出発した人で、ジョーン・バエズに魅せられて歌手を志したのでした。ただ、それはフォークの理念とかいうことより、ともかく歌が好き、音楽が好きということだったと思います。ですから、ジャンルにこだわらずいい歌は歌う、というスタンスだったのではないでしょうか。(もっともさすがに演歌は合わなかったと思いますが)
しかし、〈無化粧〉に見られるように、普段着の自分、自然な自分でありたいという心情はフォークにつながるものだったのでしょう。この中で「私が本当にやりたいのはフォークコンサート」と言っていますが、それはけばけばしく飾り立てたステージではなく、純粋にうたを聴いてくれる人の前で生身の自分で歌いたいという彼女の夢だったのですね。
まりちゃんズの人たちはそれを「意外」と言っていますが、彼らもまた、「スーパーアイドル天地真理」という先入観、偶像にとらわれていたのではないでしょうか。
そして、真理さんのこのささやかな夢も、この偶像の重さの故についに実現することはなかったのです。
もし、タイムマシーンで当時に戻れるなら、せめてこのささやかな夢をかなえてあげたいと思わずにいられません。
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話題は行ってきたばかりの沖縄海洋博に移っていきます。
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沖縄海洋博は1975年7月20日から1976年1月18日まで沖縄本島北部の本部町で開かれた万博で、1972年にアメリカの占領統治から日本の施政下へ復帰したものの、激しい沖縄戦とそれに続く長い占領下で経済の発展が遅れた沖縄の開発を進める“起爆剤”として開かれたものです。その象徴として“海上未来都市”アクアポリスがつくられ、新交通システムが運用されるなど、明るい“未来”を描くものでした。全国から350万人が訪れ、にぎわいましたが、計画の450万人には遠く及ばず、地元業者には大きな損害を出したところもあり“自爆剤”と言われたりしました。沖縄経済も大きな面積を占める(本島の20%)米軍基地の存在もあってその後も発展は思わしくなく、本土式の“列島改造”は赤土の流出でサンゴ礁に甚大な損害を与えたと言います。現在アクアポリスは撤去され、跡地は海洋博記念公園として整備されて、沖縄美ら海水族館などが人気になっています。

真理さんは沖縄には復帰翌年の1973年に3人娘コンサートのために訪れています。ここに出てくる写真はその時のもので、青く澄んだ空と海のもと、いっそう輝いて見えますね。
ですから、この録音での話は、その2年後、2度目の訪問、と言うことになります。
そしてその感想として、真理さんはここで「沖縄が日本に感じられなかったのがすごくさびしかった」といっています。私は、この発言は当時の“本土”の人、特に芸能人として稀有の発言ではないかと思うのです。
この時、真理さんがどこで公演し、どういうところを見てきたかということはわかりません。したがって、この発言が何を意味しているか、具体的にはわからないのですが、「日本に感じられなかった」といっていることから考えると、高度成長を経た本土と比較してまだまだ残る人々の貧しさ、あるいは車で移動するだけで見えてくる延々と続くフェンスの向こうの広大な米軍基地と狭い土地にひしめく住民の家並みから本土から見捨てられてきた沖縄の現実を見ていたのだろうと思います。
司会者が「逆に、日本じゃないみたいでうれしくなっちゃう」と言っているのに対し「私もうれしかったの」とこたえているように、沖縄の独特の風土、文化には魅力を感じている、でも「沖縄の人たちのことを考えると」という言葉にあるように、繁栄を謳歌する本土との落差を痛切に感じたのではないでしょうか。
私は、他のところでの発言などから考えて、真理さんが政治的に特にすぐれた見識を持った人だとは思っていません。むしろ、あまり大きな見地から社会を考えるということは苦手な人ではないかと推測しています。しかし、そういう問題を、もっとちいさな、つまり一人ひとりの人間の問題にして考えてしまう人ではないかと思います。
また、当時、本土の人の多くがそうであったように、真理さんが沖縄戦とか戦後の占領、米軍基地の問題について、きちんとした知識を持っていたとも思われません。しかし、そうだからこそ、政治的言語ではなく、自分の感性で沖縄の「人」に想いを馳せることができたのではないでしょうか。
私自身、この頃、沖縄については全く無知でした。「本土並み返還」についての疑義(最近「密約」が明らかになりました)とか、政治的次元では関心はありましたが、今思えば本当に恥ずかしいことに、沖縄の「人」に思いを致すことはなかったのです。しかしそれは私だけでなく、多くの“本土”の人たちに共通したことではなかったでしょうか。それだけに、30年後に聞き直したテープから聞こえてきた真理さんのこの発言は驚きでした。
真理さんのこの発言から35年後の今、“本土”の人たちは沖縄の「人」に心を寄せることができているのでしょうか。
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1975年の8月頃、ある番組に出演した真理さんのお話を聞いてください。
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この司会の人は誰なのでしょう?真理さんとは以前からの知り合いみたいですね。「2年ぶり」と言っていますから、そう身近な人ではないのでしょうが、わりと親しさも感じているような雰囲気ですね。私はマスコミや芸能関係の人に疎いので、もしかしたら皆さんはすぐわかる人かもしれませんね。わかる人がおられましたら、教えてください。
(※ 下のコメントにもあるように、この司会者はケメこと佐藤公彦さんと思われます。 2014.10追記)
ともかくこの司会者のせいか、ここでは真理さんもとてもリラックスして話しているように感じます。司会者の言葉に「ギョギョ!」とか言っているのは普段あまり聞かない反応で、とてもくつろいでいるのがわかります。
そして、その会話の中で、今日は無化粧と言っています。司会者も「お化粧しないでこんなきれいな人はいない。新人がデビューしたみたいな新鮮さがある」と絶賛しています。
しかし、なぜ無化粧なのでしょうか?芸能人が化粧しないでお客さんの前に立つということは普通ないでしょう。それも真理さんのようなスーパースターが化粧しないなんて、あり得ないことのように思えます。
しかし、ここには当時の女性解放への動きと、真理さん自身の生き方の転換という2つの要素があると思います。
70年代前後は世界中に“若者の反乱”が広がった時期です。その共通の軸がベトナム反戦運動で、そこにさまざまな運動が連結していました。アメリカでは公民権運動が最高潮に達し、フランスでは学園民主化に端を発した五月革命が西欧諸国にも波及、中国文化大革命も歴史的評価は別としても紅衛兵の登場という事態にはその空気はつながっていたと私は思います。日本でも、ベトナム反戦運動が激しさを増す中、日大、東大から始まった学園闘争が燎原の火のように全国に拡大していきました。
テーマはさまざまなのにこうした動きが同時期に連動するように起きてきたのは、その根底にエスタブリッシュメント(既成の権威)への抵抗ということがあったからです。
したがって、それは政治的次元を超えて、身近なさまざまな権威、価値観を問い直す文化運動としての性格も持つようになっていきました。プロの作詞・作曲の“先生”から与えられた歌を歌うということに違和感を感じ、自分の生活実感や思想を自分の言葉で表現しようと言うところから始まったフォークソングもそうした流れの中にあったのです。そして、女性解放の運動も同様の流れの中でそれまでにない質を持つようになったのです。
当時の女性の状況は、日本国憲法で平等の権利を保障されているのに、実際は依然、男性に従属せざるをえない立場に置かれていました。第一に、仕事を持つ女性は少なく、持っていても補助的な仕事で低賃金、結婚すれば退職を迫られる“職場の花”でしかなかったのです。したがって、ほとんどの女性は自立できる経済力がなく、結婚が将来の生活を保障する唯一の道といってもよい状態でした。
そこでこの時期の女性解放の運動は、そうした従属的な地位からの脱却を目指し、従来のような法的権利の獲得や、〈主婦〉の立場での経済的権利の拡大ではなく、実質的な平等化を求めるようになります。アメリカに始まった「ウーマンリブ」運動です。日本では「中ピ連」の直接行動ばかりがマスコミを賑せましたが、もっと広範な形で、従属的な文化の拒否という文化運動の面も持つことになりました。たとえば、ブラジャーをしないという人たちもありました。今だったらそれはよりセクシーに見せるためと思われてしまうかもしれませんが、当時、それが運動になったのは、不自然な手段を使って美しく見せることは男に対する媚びと考え、それを拒否したのです。そうすると当然、飾ることはすべてそういう意味を持ってきますから、できるだけ飾らない、ジーパンとTシャツといった日常的な服装をしようとします。そしてそれは、フォークソングが大衆化していったように、普通の女性たちにも急速に広がっていきました。その流れの中で、化粧もやめようと考える人たちが増えてきました。ですから、化粧しないという人たちは結構多かったのではないでしょうか。少なくともブラジャーをやめた人よりは多かったと思います。
真理さんは女性解放運動の闘士であったわけではありません。そういう意味ではごく普通の女性であったと思います。しかしそういう普通の女性でも、化粧しないことが自分らしい自然なあり方、と考えた、いわば時代の空気のようなものがあったと思うのです。
型にはめられた生き方ではなく、自分らしく自由に生きたい、これこそ、さまざまな運動のかたちをとりながら、この時代の若者たちが追い求めたテーマだったと思います。そして、真理さんもまた、痛切にそういう願いを持っていたと思います。デビュー以来、徹底的に管理された生活を送ってきた真理さんが、はっきりとそういう願いを公の場で発言し始めたのがちょうどこの頃でした。はじめて仕事を離れて行った3月のパリ旅行、「天地真理」でなくていい時間を過ごした経験がそういう転換をもたらしたのかもしれません。「無化粧」もそういう意志の表れだったと思います。ある意味で、ここでのさりげない「無化粧」という発言は、真理さんの“人間宣言”だったと言ってもよいのではないでしょうか。
しかし、実際にはそれはかなり勇気のいることだったはずです。何といっても人気商売ですから、そのことの影響を周りのスタッフは心配したでしょう。真理さんの無化粧を「ああ、いいね」とあっさり認めてくれたのでしょうか。具体的なやり取りがどうであったかはわかりません。しかし、ワタナベプロとの関係が次第にきしみ始めたのはこの頃ではないかと私は考えています。そのことに当時どれだけの人が気づいていたでしょうか。 アーカイブ(過去記事)へ 「空いっぱいの幸せ」INDEXへ