涙よりほほえみを (2)
(1)では真理さんの笑顔はうたと共にあるひとつの芸術表現と言いました。とはいえ、笑顔で歌う気分でないこともあるでしょうし、うた以外の場面ではどうだったのでしょうか。
普通の人が何かいやなこととか悲しいことがあっても、知っている人と会えば反射的ににっこりあいさつしたり言葉を交わしたりするでしょう。不機嫌そうな顔や悲しそうな顔では失礼だからです。その笑顔を偽りだという人はいるでしょうか?
営業職の人がお客の前で急に笑顔になるのは、たしかに営業用です。でも仕事なのですから、私的な感情を抑えてしっかり仕事をしていると褒められることはあっても非難されることではないでしょう。
人間は場面場面、相手によって表情が変わるのは当たり前のことです。お葬式でうれしそうな顔をする人はいませんし、おめでたい場で悲しそうな表情をする人もいません。
真理さんの笑顔を「つくりもの」「営業用」と評した人たち自身は上にあげたような経験はないのでしょうか?日常生活の中でいわばマナーとして、あるいは人間関係を円滑にする意味で、笑顔でひとと話すことはないのでしょうか。仕事として、本当はしたくもない笑顔で接するということはないのでしょうか。そんなことは誰にとっても、ごく当たり前にあることでしょう。
真理さんも当然にも普通の人間ですからそういうこともあったに違いありません。例えばこのような意味のない非難を浴びせられ傷ついていても、ステージに立てば精一杯の笑顔で話し、楽しさいっぱいに歌いきる、それはたしかに演技であり、つくりものであり、営業用です。だが、そのことの何が問題なのでしょうか。真理さんにとってステージは仕事の場です。そこで最高のパフォーマンスを見せるのはプロの歌手として当然のことでしょう。しかも真理さんの仕事は、人々に幸せを与える仕事だったのですから。
そして真理さんはそれをこの上もなく見事にやってのけたのです。まさに「涙よりほほえみを」与え続けたのです。だから、私たちはそのようなストレスが彼女の中に蓄積しているなど気づくこともなく、ただただ彼女の一点の曇りもない笑顔からたとえようもない幸せをもらってばかりだったのです。
しかし(そこに至る理由には諸説あるが)彼女が笑顔を見せ続けることをやめた時、マスコミは今度は「奇行」と報じて、プロとしてあるまじき行為と非難したのです。笑顔で歌えば「つくりもの」、笑顔をやめれば「奇行」、これが当時の芸能マスコミの実態でした。
80年代以降「アイドル」の意味がだいぶ変わってきました。元アイドルの人が「私がアイドルをやっていた頃」という表現をよくするように、今では「アイドル」というのは「やる」ものになっていて、お芝居の「役」見たいな感覚ですね。見る側も本人の人格と結びつけては考えない、いわばそういう約束事の上に成り立っている存在ではないでしょうか。真理さんの時代はアイドルは人格と同一視されていたので、ストレスは考えられないほど強かったのでしょう。俳優が実生活でもドラマの中の役を演じ続けなければならないようなものといえば実感がわきます。
もし真理さんが現代のような意味でのアイドルだったら精神的にはずっと楽だったでしょうね。もっとも、かつての真理さんが現代に現れたなら、「アイドル」ではなく「アーティスト」と呼ばれたでしょうが。
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普通の人が何かいやなこととか悲しいことがあっても、知っている人と会えば反射的ににっこりあいさつしたり言葉を交わしたりするでしょう。不機嫌そうな顔や悲しそうな顔では失礼だからです。その笑顔を偽りだという人はいるでしょうか?
営業職の人がお客の前で急に笑顔になるのは、たしかに営業用です。でも仕事なのですから、私的な感情を抑えてしっかり仕事をしていると褒められることはあっても非難されることではないでしょう。
人間は場面場面、相手によって表情が変わるのは当たり前のことです。お葬式でうれしそうな顔をする人はいませんし、おめでたい場で悲しそうな表情をする人もいません。
真理さんの笑顔を「つくりもの」「営業用」と評した人たち自身は上にあげたような経験はないのでしょうか?日常生活の中でいわばマナーとして、あるいは人間関係を円滑にする意味で、笑顔でひとと話すことはないのでしょうか。仕事として、本当はしたくもない笑顔で接するということはないのでしょうか。そんなことは誰にとっても、ごく当たり前にあることでしょう。
真理さんも当然にも普通の人間ですからそういうこともあったに違いありません。例えばこのような意味のない非難を浴びせられ傷ついていても、ステージに立てば精一杯の笑顔で話し、楽しさいっぱいに歌いきる、それはたしかに演技であり、つくりものであり、営業用です。だが、そのことの何が問題なのでしょうか。真理さんにとってステージは仕事の場です。そこで最高のパフォーマンスを見せるのはプロの歌手として当然のことでしょう。しかも真理さんの仕事は、人々に幸せを与える仕事だったのですから。
そして真理さんはそれをこの上もなく見事にやってのけたのです。まさに「涙よりほほえみを」与え続けたのです。だから、私たちはそのようなストレスが彼女の中に蓄積しているなど気づくこともなく、ただただ彼女の一点の曇りもない笑顔からたとえようもない幸せをもらってばかりだったのです。
しかし(そこに至る理由には諸説あるが)彼女が笑顔を見せ続けることをやめた時、マスコミは今度は「奇行」と報じて、プロとしてあるまじき行為と非難したのです。笑顔で歌えば「つくりもの」、笑顔をやめれば「奇行」、これが当時の芸能マスコミの実態でした。
80年代以降「アイドル」の意味がだいぶ変わってきました。元アイドルの人が「私がアイドルをやっていた頃」という表現をよくするように、今では「アイドル」というのは「やる」ものになっていて、お芝居の「役」見たいな感覚ですね。見る側も本人の人格と結びつけては考えない、いわばそういう約束事の上に成り立っている存在ではないでしょうか。真理さんの時代はアイドルは人格と同一視されていたので、ストレスは考えられないほど強かったのでしょう。俳優が実生活でもドラマの中の役を演じ続けなければならないようなものといえば実感がわきます。
もし真理さんが現代のような意味でのアイドルだったら精神的にはずっと楽だったでしょうね。もっとも、かつての真理さんが現代に現れたなら、「アイドル」ではなく「アーティスト」と呼ばれたでしょうが。
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