小説『マリちゃん』 (3)
なぜ麻里亜は消息を絶ったまま途中で名乗り出なかったのでしょうか?ディレクターとの愛はたしかに道徳的には批判されるかもしれないが、法律に反したわけではなく、名乗り出てきても、最初は激しい非難もあるでしょうが、少し経てば沈静化するものだし、芸能界に復帰できなくとも普通の人としては生活できたはずです。にもかかわらずなぜ、そこまでして隠れ続けたのか? 私は、麻里亜は〈阿部慶子〉ではなく〈阿部麻里亜〉として生きたのだと考えます。それは父母との関係から阿部慶子に戻りたくなかったということもあるでしょうが、何よりも阿部麻里亜として生きた時間こそかけがえのない時間であり、自分が生きた証だったからではないでしょうか。たとえどんなにみじめな境遇であろうとも、阿部麻里亜の人生を捨てる(否定する)ことはできなかった、ということではないでしょうか。
私がそのように読んだのは、そこに天地真理さんの生き方に通じるものを感じたからです。もし彼女が1977年初頭の入院~休養から復帰することなく引退してしまっていたら、天地真理の名はほとんど神格化されていたでしょう。絶頂期に引退した山口百恵や南沙織、あるいはキャンディーズを凌ぐ伝説のスーパースターとして記憶されたはずです。たとえ派手な引退公演がなくひっそりとした引退であったとしても、むしろ、絶頂を極めながら病に倒れた悲劇のスターという要素も加わって神話的な存在になっていたと思います。しかし彼女はすさまじい努力を重ねて復帰してきたのです。しかし、その努力は報いられることはなく、その後は、結婚・離婚をはさみながら、かつての偶像をかなぐり捨て、むしろさまざまな”汚れ役”に身をさらすようにして生きてきました。それを「自らイメージをこわしてファンを裏切った」と非難するかつての”ファン”もいます。そのことについてはまた別の機会に考えたいと思いますが、たしかにそんな役ならむしろ引退した方が彼女自身も気が楽だったのではないか、ということも考えられると思います。そこに阿部麻里亜と通じるところがあると思うのです。
阿部麻里亜が〈阿部慶子〉にもどって生きたならホームレスにまでならなくてもよかったでしょう。天地真理さんも〈斉藤真理〉に戻った方が実生活の面では幸せだったかもしれません。しかし、彼女はやはり〈天地真理〉として生きる道を選んだのです。コンサートのタイトルとした『私は天地真理』という決意を彼女は捨てなかったのです。
「心のままに生きていくのは、いけないことでしょうか?」という『告悔』の言葉そのままに生きてきたのです。
阿部麻里亜と同じように、彼女にとって〈天地真理〉として生きた時間は何よりかけがえのないものであり、〈斉藤真理〉として生きることは〈天地真理〉の人生を否定することだったのではないでしょうか。
ふり向いてはいけない
ふり向いてはいけない
ふり向いたら きっと 朝もやの海の中に
わたしが追いかけた夢まで消えて行く
(最後のアルバム『童話作家』所収「二月の風景画」 詞:小谷夏)
「これからも、フレッシュでかわいい女の子でいたいと思います」というこのコンサートの最後の言葉の意味が、私は今にしてようやくわかったように思います。それは内面の有りようだったのですね。そして、彼女は今もこの言葉通り生きているのではないでしょうか。
小説の最後、静かに目を閉じる麻里亜は決して哀れではなく、むしろ毅然とした姿で描かれています。作者の意図がどこにあったかはわかりません。でも、私はそう読みました。
※ 結末を考えずに書き始めてしまい、途中でやめたくなりました。どうまとめたらいいか、わからなくなったのです。ほかの話題に移ってしまえば誰も気づかないさ、とも考えました。ところが、そんなことを考えながら最後のところを読み直していた時、突然、すべてのつながりがくっきり見えてきました。
小説については著者の意図からすれば外れているのかもしれません。また、天地真理さんの生き方についてはご本人しか本当のところはわからないでしょうから、あくまで勝手な推測です。しかし細かな事実関係は別として、彼女の心の奥にこういう思いがあったのではないかと、この記事をまとめる中で思うようになったのです。
ともかく、年内にまとめられてほっとしました。
みなさま、よいお年をお迎えください。
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私がそのように読んだのは、そこに天地真理さんの生き方に通じるものを感じたからです。もし彼女が1977年初頭の入院~休養から復帰することなく引退してしまっていたら、天地真理の名はほとんど神格化されていたでしょう。絶頂期に引退した山口百恵や南沙織、あるいはキャンディーズを凌ぐ伝説のスーパースターとして記憶されたはずです。たとえ派手な引退公演がなくひっそりとした引退であったとしても、むしろ、絶頂を極めながら病に倒れた悲劇のスターという要素も加わって神話的な存在になっていたと思います。しかし彼女はすさまじい努力を重ねて復帰してきたのです。しかし、その努力は報いられることはなく、その後は、結婚・離婚をはさみながら、かつての偶像をかなぐり捨て、むしろさまざまな”汚れ役”に身をさらすようにして生きてきました。それを「自らイメージをこわしてファンを裏切った」と非難するかつての”ファン”もいます。そのことについてはまた別の機会に考えたいと思いますが、たしかにそんな役ならむしろ引退した方が彼女自身も気が楽だったのではないか、ということも考えられると思います。そこに阿部麻里亜と通じるところがあると思うのです。
阿部麻里亜が〈阿部慶子〉にもどって生きたならホームレスにまでならなくてもよかったでしょう。天地真理さんも〈斉藤真理〉に戻った方が実生活の面では幸せだったかもしれません。しかし、彼女はやはり〈天地真理〉として生きる道を選んだのです。コンサートのタイトルとした『私は天地真理』という決意を彼女は捨てなかったのです。
「心のままに生きていくのは、いけないことでしょうか?」という『告悔』の言葉そのままに生きてきたのです。
阿部麻里亜と同じように、彼女にとって〈天地真理〉として生きた時間は何よりかけがえのないものであり、〈斉藤真理〉として生きることは〈天地真理〉の人生を否定することだったのではないでしょうか。
ふり向いてはいけない
ふり向いてはいけない
ふり向いたら きっと 朝もやの海の中に
わたしが追いかけた夢まで消えて行く
(最後のアルバム『童話作家』所収「二月の風景画」 詞:小谷夏)
「これからも、フレッシュでかわいい女の子でいたいと思います」というこのコンサートの最後の言葉の意味が、私は今にしてようやくわかったように思います。それは内面の有りようだったのですね。そして、彼女は今もこの言葉通り生きているのではないでしょうか。
小説の最後、静かに目を閉じる麻里亜は決して哀れではなく、むしろ毅然とした姿で描かれています。作者の意図がどこにあったかはわかりません。でも、私はそう読みました。
※ 結末を考えずに書き始めてしまい、途中でやめたくなりました。どうまとめたらいいか、わからなくなったのです。ほかの話題に移ってしまえば誰も気づかないさ、とも考えました。ところが、そんなことを考えながら最後のところを読み直していた時、突然、すべてのつながりがくっきり見えてきました。
小説については著者の意図からすれば外れているのかもしれません。また、天地真理さんの生き方についてはご本人しか本当のところはわからないでしょうから、あくまで勝手な推測です。しかし細かな事実関係は別として、彼女の心の奥にこういう思いがあったのではないかと、この記事をまとめる中で思うようになったのです。
ともかく、年内にまとめられてほっとしました。
みなさま、よいお年をお迎えください。
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